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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

観客席はない(「科学は誰のものか」平川秀行)

やっぱり読まなきゃいけないのかな、みたいに感じたので読んだ。

科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)

科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)

読んだけど、書評的なものを書くのは難しい。

なんで難しいか、と云うと、ぼく自身にひきつけて読む限り、正直おのれの言動を若干でも支持してくれる書物として読むか、あるいは書かれている内容におのれの行動をひき較べて反省するか、しかできないので(前者について述べるのは見苦しいし、後者について書くのは恥ずかしい)。だからここから書くことはちょっと嫌な意味で、自分語り的な色合いを帯びる、かも。

ここでぼくは、ニセ科学の問題に関してそれなりの期間、それなりの分量の考察を提示してきた。ここは所詮議論の全体のなかではほんとうの片隅でしかないけれど、それでもあたまの血のめぐりのあまりよくない、さして勉強もしなければ科学そのものに対する知識もとぼしい中年男の言説にしては、本来望み得ないぐらいには読まれていたりもする。

科学者と云う専門職ではない場所から語る以上、社会(に住むぼくたち)と科学の関わり合いについてことばにすることも複数回あって。このへんはぼくなんかよりもっと優れた人文系の論者がより精緻な議論を展開されているけれど、いずれにせよ根底にあるのは、ぼくたちの誰ひとりとして「社会と科学の関わりあい」と云う問題について観客席にはいない、と云う意識。
だれひとりとして。科学者も、そうではないぼくたちも。

科学は、社会を変えていく。そのことにフォーカスしたのが、こちらで書いた長神風二氏の予定不調和だったりもするのだけど、本書では「社会が科学を変えていく」具体的な事例も示されている。科学・技術も社会のなかにあるものなので、その本来の原理はともかくとして、独立したものではあり得ない。と云うか、その「独立したものでありうる原理的な可能性」をいかに効果的に活用するか、と云う部分が、ある意味社会のなかでの科学と云うものの意義でもあって。その意義は、当然ながら社会から科学を切断するような発想においては発揮することができない(余談だけど、昨今さまざまな発言でちょっと話題の群馬大学早川由紀夫教授の言動の根底には、科学を科学として社会から切り離してその原理的な独立性を守りたい、そのためには科学が社会となまなましく接するような状況においてはとりあえず矢面のジャンルを切断して、全面的に社会の側にその選択の下駄を預けて他人事としていたい、と云うような発想があるのではないか、と云う疑念を持っている。ニセ科学の議論においてぜったいに観客席からでてこないような論者の主張を援用したがるのは、スタンスが類似しているからではないのかな)。

いまはだれもぼくのことをkikulogのコメント欄の常連だ、なんて認識していないと思うけれども(年に数回しか書き込まないしね)、ここを始めるのと前後するあたりの数年前にはそれなりにコメント欄でも発言したりしていて。それは多くの場合、社会とのコミットメントが薄いようにみられる科学者を批判するような言辞だったのだけれど、あきらかにそれは観客席からの発言だった、と思う。いまみたいに、ぼくのようなうすらぼけとは違う、優れた「科学の専門家ではないけどニセ科学の問題について発言する論者」が何人も登場する前の話。でもそれなりにあれこれ考えてきて、そしてコメント欄でいろいろな示唆をいただいて、牛歩のごときペースではあっても視野はいくらか広がったし、そしてたぶん意識のうえでは観客席からアリーナに身を乗り出す、くらいの場所にはでてきているんだと思う。幻想の観客席、からね。

この本の書評は藤井由紀子さんが書評:「科学は誰のものか~社会の側から問い直す」と云うエントリでお書きになっている。科学者による非常に丁寧な書評で同意できる部分も多いのだけれど、後半部分でおっしゃっていることには異論がある。

 しかし、本書に描かれている「科学技術像(と科学者像)」からは、それらがあまりに問題に満ち、信用ならず、危険なものであるかのような印象のみを受ける。
 これがほんとうだとしたら、なんのために、非専門家は科学技術の専門家と対話する必要があるのだろう、非専門家だけで決めていけばいいではないか、とすら思えた。

社会とのあいだに適切な関わり合いを持てていない状況におかれている場合、科学技術は問題に満ち、信用ならず、危険なものでありうる、と思う。著者が本書のなかで挙げている事例にあるとおりに。個々の科学技術の専門家がイノセンスであっても、その研究の果実はいかようにも利用しうる。そして、その結果において、社会の成員としての科学技術の専門家が観客席にいてもいい、と云うことにはならないと思うし、だからこそコミュニケーションが重要なのだ、と云うのが著者の主張だと思う。 科学は科学技術の専門家のものでも、非専門家のものでもない。だから非専門家は専門家から知識を得ることが重要だし、逆に専門家は非専門家に利用可能なものとしての知識を伝えることが重要になる(ここでぼくは瀬名秀明さんの科学者がパトロンになればいいと云うエントリを少し思い出す)。

 本書を素直に読む限り、私は平川氏のいう「善い科学」から得られる果実を思い浮かべることができなかった。
 これでは、非専門家は、「科学技術の暴走」に歯止めをかけるだけの単なるお目付役にすぎない。しかし、そんな仕事が楽しいだろうか?
 また、それは科学技術嫌いと過度な自然信仰に拍車をかけることにならないだろうか?
 そして、心ある科学技術の専門家にとっても、浮世離れしたマッドサイエンティストに対するようなまなざしを向けられることは、対話する意欲を著しく削ぐことになるだろう。専門家もまた、市民の一人なのに。

いじわるが云いたいわけではないのだけれど、この読み方はどうも「科学は科学技術の専門家のもの」と云う考え方がベースになっているように見えてしまう。

ぼくは、「科学は誰のものか」と云う問いに対する平川氏の回答を「それを共用すべき社会のすべての成員のもの」である、と読んだ。だからこそ、専門家と非専門家が知識を共有し、その使い方について考えることに意義がある、と云う主張をぼくは読み取った。そこに対立構造を見てしまうのは、むしろ藤井さんの側にどこか「科学は本来科学技術の専門家のものである」と云うような意識があるからではないのかなぁ。だとすれば世代が云々と云う話でなくとも、違和感を感じられることはあるだろうけど。

いずれにせよ、社会と科学の関わりあいについて関心のある向きには(ニセ科学の問題に興味のあるひとも含め)本書は読む価値がある、と思う。ぼく個人としては、やっぱりハーバーマスとかもちょっとでも勉強しておかなきゃいけないのかなぁ、みたいに思ったりもした。