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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

侮蔑

世間

日本大学デザインネットワークのサイトに、鈴木淳平さんと云うかたの「水はクリエーター、人智を超えた創造力」と云うコラムが掲載されていた。

このかたの会社、ポピー・ザ・ぱフォーマーのグッズなんかを制作・販売されているみたい。好きだったなぁ。ちょっと欲しい。

「気」と云う字をあえていちいち「氣」と書かれるひとは一定数いて、そう云う方々に共通するある種の性向、と云うのもあるように(経験上)感じたりもする。

 「一粒の雨」も水です。その水を好奇心と熱意で研究し発見した本で「感動」を、共有することができます。

感動の共有って怖いなぁ、とか思う。結局感動ってのは個々の内面に生じるもので、その意味では根本的に共有しえないものなので。だからぼくたちはそれを誰かに伝え、共有することを試みるためにあまたのことばを費やす(あるいはあまたの表現を生み出す)わけで、それなしでの「感動の共有」は、単に「共有できるひと」と「できないひと」を分断するだけになってしまう。もちろんだれかの感動に異論を唱えることなんかできないわけで(内心のものだからね)、結局のところこれは例えば感性についての対話の空疎さにも似てくる。なので例えば水の結晶を見たときの感激は数年たったいまでも凄いという以外ありませんみたいなことを云われても、それだけではどうすごいのかは共有できない。できる、と思っているんだったら、それはたぶんよっぽど「ことばを使ってなにかを伝える」と云うことを甘く見ているんだろう。

右の写真はどう見ても雪の結晶写真としてしか、最初は想えませんでした。
これが水の結晶だなんて、驚くばかりです。

いや、雪も水が凍ったものなので、水の結晶なんですが。どこに驚かれたんだろう。

水は一例として音楽を聴くと、結晶化する形を変えます。
曲によって形がみな違う写真を見て、正に水は生きていると実感しました。
水の驚くべき創作能力とイマジネーションの凄さに脱帽です。

水の結晶は、なにもしなくてもこまかい条件の相違でまったく違った、さまざまな姿のものがつくられる。江本勝氏の書籍に掲載されている「水の結晶」の写真は江本氏自身のセレクトにもとづくもの、だとご本人もおっしゃっている(要するに江本氏自身が「適切でない」と判断したものは掲載されていない)ので、この方が感動されているのはたぶん水の驚くべき創作能力とイマジネーションの凄さなんかじゃなくて、江本氏のセレクトとロジックに対して、と云うことになるのではないのかな(ヘヴィメタルが嫌いなのはお水さまじゃなくて江本氏だろう、と云う話は以前からある。そのへんに関わることはこっちとかこっちとかで書いた)。

水には人間よりも素直に波動を感じ取る能力があると、クリエーターとしての水の純粋性を感じさせてくれます。

実際にはこのかたもクリエイターでいらっしゃると思うので、クリエイターに要求されるものが単に純粋性だったりはしないことはよくご存知なんだろう、とは思うのだけれど。受け手を想定しないクリエイションがクリエイションたりうるか、と云う議論は、アール・ブリュットをめぐる論点とも通じるように思う。

それは「ルルドの奇跡」のようなものを感じさせてくれます。

よけいなお世話だけど、こんなことばがヴァティカンの耳に入ったら、どんなふうに思われるんだろうな。

好奇心旺盛な私は早速試してみました。
驚くより奇跡を体験しているようです。
ぜひ試してみてはいかがでしょう。

なにが起きたって云うんだろう。ここまで云うんだから「飲んでみておいしく感じた」って云うだけではないんだろうけど、お書きになっていないのでわからない。

水が自ら作り出す様々な結晶には人間の言葉ではない自然界の万物共通の言葉が秘められているのではないかとさえ想えるほどです。

読んでいて全体に、クリエイターなら自然界の万物共通の言葉よりも人間の言葉を大事にしてくれないかな、とか思う。この文章はたぶん人間に向けて書かれているんだろう、と推測されるので(わからないけど)。

天から降りてきた音楽(メロディ)と同じで、それは周波数を合わせて受信できるようになる人間と似ています。波動の成せる技です。

メロディは天から降りてきたりはしません。仮にそれが天上に向けられたものであろうと、それはわれわれ地を這う衆生のひとりが創造したものであり、だからこそ意義があるのだ、とぼくは考えます。
不思議だなぁ、と思うのだけれど。

この文章は全体として、ひとのなすこととしての創造と云う行為を侮蔑するものにしか、ぼくには読めない。こう云うことばがクリエイター当人から発されるのって、どう云うことなんだろう。