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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

舞台としての街

みたもの、読んだもの

ようやっとゴールデン・スランバーを観にいった。公開から3ヶ月を経過してもまだ上映しているのは、さすがにロケ地、と云う話なんだろう(とは云え仙台の街中では、まだ剥がされていないポスターを散見するのだけどね)。

重力ピエロを観にいったときとは違って、今回は原作は未読のまま。いろいろと余裕のない状況にあって、伊坂光太郎と云うのはいまのぼくにとってはそれほど慌てて読みたくなるような作家ではない、と云うようなあたり。

何度も書いているけれどぼくには映画を評価する能力があまりないので、作品として見てどう思ったか、は書かない(いやもちろん好き嫌いもあるし感動したりすることもあるけれど、文章でそれを伝える力量を欠いているのだ)。

「背景」が仙台だった重力ピエロと違って、今回の映画は「舞台」が仙台。映画の大半は見た瞬間にどこだかわかるようななじみのあるあたりで撮影されている。街もパッチワークされず、そこで流れる時間と登場人物の移動距離をまったく不自然に感じさせないような配慮がなされている。

でもそこに、不思議となまなましさはない。

映画そのものが観光名所を巡るような物語でも、ノスタルジアを惹起しようとするようなつくりでもなかったことが、もちろん大きな要因なのだろう。仙台はこの映画のなかではとくに趣向を凝らしていない、リアルな舞台装置としての機能のみを求められている。それでも冒頭の定禅寺通とか、いつも感じるような絵空事めいた美しさはあるのだけど、そこに改めて、例えば「フィルムに焼き付けられているがゆえの異なった視点からの眺め」はない。スクリーンに映し出される広瀬通にも、一番町にも、勾当台公園にも。

これはもちろん映画としての瑕疵ではなくて、逆に云えば物語を追うものとして映画をシリアスに撮った結果としては、とても自然なことなのだろう、と思う。なんだかえらく張り込んだ派手なキャストもあいまって、この映画のなかでの仙台はそのコンパクトで、それでも相応に都市としての集積感のある面構えを提供するバックグラウンドとしてのみ機能している。

逆に、都市としての個性を際立たせることなくその機能を果たせるのが、いまの仙台の街、と云うことなんだろうな、とも思う。

でまぁとりあえず、映画館を出て帰路についたわけだけど。

とりあえず周囲に広がるのは、さっきまでスクリーンで見ていた風景。ひとむかしまえの香港映画を香港で見たら、ちょうど同じような気分に浸ることもできるのかもな、とちょっと思った。