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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

物語の外にあるもの(「エピデミック」川端裕人)

いくつかの意味で余裕がない。読まなければいけない本もあるのだけれどさっぱり進まない。
でも、読みはじめてしまったらもう止まらない種類の本もある。

エピデミック (角川文庫)

エピデミック (角川文庫)

去年の年末に(タイムリーと云えば云える)文庫に落ちた、この本。

ミステリ仕立てとは云えて、それはこの小説が謎解きの物語であることとも関係しているし、第3部の題に「疫学探偵」とつけられていることからも明白とも云える。

多くの小説はその筋立てのなかで謎を準備し、その解決をエンジンとして物語を推進させる手法をとる。じつはぼくはこの手法がお手軽なものに感じられてあまり好きじゃなくて、なので前提としてその手法をビルトインしている(つまりはその手法をとることに、著者側を創作上の逡巡からあらかじめ解放している)推理小説はあまり読まないのだけれど。

で、この小説については、その「謎解き」は手法として選ばれたものじゃなくて、テーマそのものが包含する重要な要素なわけで。なので、物語のドライブされていく方向は推理小説に似ていようとも、じっさいの登場人物たちの行動は、通常推理小説に登場するキャラクターがとるそれとは相当に違う。ひとによっては、それを違和感と感じ取るかもしれない。
ケイトと仙水はひたすらに可能性を、仮説を集める。そして、棋理やほかの登場人物の助力を得てそれらを評価し、順次捨てていく。捨てられた仮説は完全に誤っていたとはかぎらないけれど、全体像に対して相対的に影響力が弱いものだ。

そして、それらは物語のなかで「伏線」としては機能せず、また完全に回収もされない。謎解きの過程をストーリイとすれば、それはほんとうに「捨てられる」。

読むぼくらは、物語を追うなかで登場した仮説の回収を求める。整合を求める。でも、それらは提供されない。疫学は、(登場人物たちのことばにあるように)最終的には科学だから。そしてそれは、ぼくたちの求める物語とは離れて、厳然と成立するものだから。多くの読者に違和感を与える可能性を、語り手たる作者がおそらく承知しつつ、このような展開を選んだ意図は、そこにあるのだと思う。

昨年取りざたされた新型インフルエンザは、事実上ぼくらの日常のなかでは旧聞に属するものとなってしまった。結果として社会的に大きな影響が生じなかったことについて、じっさいにどのようなひとたちのどのような努力があったのか、をぼくたちはあまり知らない(そのあたりのメディアのありかたやポリティクスについても、この小説はいくらか触れている)。云い換えれば、それはぼくらの日常において現在それほど関心を集めている物語、ではない。
でも、ぼくらは物語のなかに住んでいるわけではないのだ。そして、そのことは場合によっては、物語の外側から見た視点から理解されなければいけないのだ。