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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

世界の見えかたと、視界の限界 (「虐殺器官」伊藤計劃)

文庫に落ちていたので、やっと読んだ。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

なんとなくぼくは、SFと云うものを「実在論にもとづく小説のジャンル」だと把握している部分がある。
小説を書くときに語りの視点をどこに置くか、と云うのは基本的で重要な技法に属する部分で、それは結局その視点の届く範囲の外にあるものについては直接には語り得ない、と云うことになるからで。
 
でも、語り口において語り得ないものが存在しても、それはその小説世界の中に存在しない、と云うことにはならない。具体的な「舞台」を設定している小説には、例えば原則その舞台に存在するものはすべてその小説世界の裡に存在している、と云う暗黙の前提を置くことになる。
 
SFの舞台は、このぼくらが暮らしている実在論的な意味での世界、そのものだ、と云うこと。なにが云いたいのかと云うと、その描かれる世界は本来、ぼくらの暮らすこの世界と同様、実際に存在する膨大なディテールの集積で成り立っている(と、読むぼくらが認識している)、と云うことだ。現実世界と同様、そのすべてを認識することができなくても、存在する、はず。
 
この小説を読みはじめてしばらくして、その不思議な、読みやすさ、と云うのが気になり始めた。
一人称の小説なので、主人公の認識と云うフィルターを経由した情報が、小説内の世界についてぼくらが与えられるもののすべてだ。そしてそれが整然と、混乱なく伝わってくる。それは単純に作者の技量、と云うことではなく。クラヴィスはとても素直な、明解な理解力をもって、その置かれた世界を認識し、そこにある悲惨を認識して、曖昧さのない口調で読み手にあるぼくたちに伝える。不思議なほど不純物の混じらない、クリアな情報を。
 
そのことそのものが、いちばん大きな仕掛けなのかもしれない、と気づいたのは、もうだいぶ読み進めてから、だった。クラヴィスの視点にあるその明晰さ、そのものが、本来は異常なのだ。
 
もちろんその異常さについての設定はある。ときおり差し挟まれるクラヴィスの感情的な混乱は、それが制御のくびきを離れたときの、通常の状態にあるときの彼の素直な世界認識を伝えてくる。そこにある(もしくはあるはずの)ギャップ。
ぼくたちの、いままさに暮らしているこの現実の世界に対する認識は、歪んでいる。歪みをもたらす要素はいくつもあって、ぼくたちはそれぞれが個人的な、環境的なバイアスのかけられた情報を集めて、その集合体を世界だと認識している。
 
世界はひとつで、いまやその世界を情報が凄まじい速度で、大量に飛び回る。ぼくたちの手にすることのできる情報はひとむかし前よりもはるかに多く、世界について知ることのできる機会も圧倒的に増えている。でも、実際にぼくたちがそれらの情報を浴びたうえで脳裏に描き出す世界のヴィジョンは、何十年か前に比較すれば格段に精緻ではあるにしても、それは世界そのもの、ではない。そこには、ぼくたち自身の限界がある。認識の限界、処理の限界、想像力の限界が。ぼくたちの認識には、クラヴィスのような外的な処理がほどこされているわけではないにもかかわらず。
 
虐殺器官とはなんなのか、それがどう云う原理で、どのように働くものなのか。ぼくらはこの小説を読み終えても、それを理解することはない。ジョン・ポールもそのことについては深くは語らないし、クラヴィスも綿密な理解をぼくたちに伝えてはくれない。ただ、それは用いられる。
この世界にあるものに対して、ぼくたちは現実にそのような理解のしかたで把握をし、用いることができる。自分自身に対しても、他者に対しても。最初に書いたようにそこにはそもそも限界があるし、この限界はいくらでもエクスキューズとして用いることができる。
たぶん問われるのは、そのことを自己に対して容認するのかどうか、と云う部分でもあるのだろう。