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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「薬」と「毒」

病理医のPseuDoctorさんがこちらのエントリに寄せてくださったコメントが非常に示唆に富むと感じたので、ご本人の承諾を得て独立したエントリとして立てさせていただく(ニセ科学蔓延に対する対策、と云う部分についての考察は割愛させていただいて)。 「薬は毒を薄めたもの」と云う言い回しはポピュラーに使われるけれど、それはこう云うことなのであって。

では本題です。

語源的な部分はちょっと不勉強ですが、歴史的に見てもおそらく「毒」という概念が先にあって、そこから「薬」が分化してきたものと推測されます。逆に言いますと、この場合の「毒」は「薬」を含んでいますから「心身に影響を及ぼすものの総称」とでも言える概念なのですね。
医療の黎明期から残されている伝説を見ますと、東洋でも西洋でも、自らを実験台として薬を発見した聖人ないし半神の話が出てきます。他の多くの伝説と同様に、この話にもいくばくかの真実が含まれていると考えられますので、人類は試行錯誤の末に「毒」の中から「薬」を選り分けていったと解釈するのが自然でしょう。
言わば薬とは「自然を(部分的に)飼い馴らすのに成功した例」という言い方も出来ます。人間の都合で分けているという点からすれば、まさしく私も「腐敗と発酵」との類似を考えていたところです。

以上より、成り立ちからして「全ての薬は毒である」と言える訳ですが、薬理学的に見てもその通りなのです。薬が心身に何らかの作用を及ぼすものである以上、その作用が強くなり過ぎる事は好ましくありません。多くの薬の作用は投与量に依存しますので、一般的に「使い方を間違えると有害な結果を引き起こす」と言えます。
一方で、アレルギー反応の様に量に依存し難いものもありますが、いずれにしても「副作用の無い薬は無い」「有害事象を全く生じない薬は無い」と言い切って良いと思います。
この事は日常的な概念からでもある程度は類推出来ます。人体とは想像を絶する複雑さと精妙さを持った構造ですから、そこに変化を加える以上、意図しない効果が生じる危険性が常に存在するのは当たり前です。例えるなら、高度にチューニングされたエンジンでも楽器でも良いですが、そこに何らかの操作を加える場合「一方的にやればやるほど良くなる操作」などというものがあるのでしょうか。ネジ一本にしても最適な締め加減というものがあって、締めれば締めるほど(あるいは、緩めれば緩めるほど)性能が上がる、などと言う事は無い筈です。増してや、人体の場合は推して知るべし、です。

以上をまとめると、以下の様になります。
狭義の毒 + 薬 = 広義の毒
ここで「狭義の毒」とは害しかもたらさないもの、「薬」とは益と害の両方をもたらすものです。従って「広義の毒」とは「何らかの影響を及ぼすもの」となる訳です。
注意すべきは「益のみをもたらすものは無い」という点です。「有害無益」はあっても「有益無害」は有り得ないのです。

しかしながら、こういう考え方はどうも受けが悪い様です。どうしても人は「ウマい話」を求めてしまうのですね。曰く「副作用が皆無の理想的な治療法」「元手なしで安全確実に大儲け」「○○する『だけ』でみるみる改善」「あなただけに教えます」・・・
これらは全て「都合の良い話」を求める心理につけ込んだものです。ですから「ウマい話など存在しない」と言い続けるのも大事なのですが、どうもそれだけでは充分ではない。何故なら「本当はあるのに隠してるんだろう」と思われたら終りだからです。
その場合には、理屈だけでなく感性にも訴えていく必要がある。例えば、肥後守は切れ味が鈍いけれども怪我もし難いとか、電気カミソリは深剃り出来ないけど顔も切らないとかの、納得し易い経験から類推してもらうのです。
但し、この方法は切れ味の良い刃物を使い、かつ、それで怪我をした経験が無い相手に対しては、効果が薄いでしょう。その意味で、進歩した現代社会に住む我々は「痛い目を見る」機会が少な過ぎるのかもしれません。