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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

採点競技(2)

こっちで書いたバンクーバーオリンピックでのフィギュアスケート男子シングルについて、青嶋ひろのの高橋らメダリストたちが「守った」もの=フィギュア男子と云う記事を読んだ。 青嶋さんのコラムにはどうにも思い入れ過多、みたいな部分があって、そこはプロのライターとしてどうなのよ、と思わなくもないんだけど、逆にぼく個人としては視点が近くてうなずける内容が多かったり。いいんだか悪いんだか。

 壮絶でスリリングだったメダル争いも、私たちは十分楽しんだ。しかし、彼らがそれぞれの価値観でフィギュアスケートを追い求める様が五輪で見られたことも、本当に素晴らしかった。

フィギュアスケートに、ある意味正解はない。少なくともその演技を見て、楽しむ側にとっては。
そこに含まれる多様な要素のうち、どれをより重要だと思うか、どこに重点をおいて観るか。それは観る側の自由だ。

 スピードスポーツやボールゲームでは、侵しがたい勝敗がつく。しかしフィギュアスケートというスポーツにあっては、本当の勝者は誰か? 審判による順位は厳然とつけられはするが、3人やそのほかのスケーターたちの順位、優劣は、見た人それぞれが決めればいいのだと思う。

もちろん選手は勝利をめざして演技する。競技が優劣を問うものである以上。そこに敬意をはらうのは、スポーツを観るにあたっては当然のことだとは思う。でも(こちらで書いたこととも関係してくるけれど)フィギュアスケートと云う、複合的な要素を包含する採点競技において、そこに向かうためのアプローチが選手ごとに多様であるのは自然なことだし、望ましいことだ。そう考えることによって、ぼくら観衆はより楽しく観戦できる、と思う。メダルの色がどうだ、みたいな安直でわかりやすくて一面的な捉えかたじゃなくて。

まぁそれはそれとして。

日本の鈴木明子(邦和スポーツランド)も語っていたが、「冷静に自分をコントロールしながら、情熱的な無我の演技を見せることは難しい」。

こう云うことばがあっこちゃんの口から出ると、改めて気付かされることがある。彼女の演技からぼくたちが受け取るほとばしるような情熱は、それでもやはり鈴木明子と云うアスリートが鍛錬のすえに現出させた、ゆきとどいたコントロールの結果としての「表現」なのだと云うこと。