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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

脆弱さ

yoseiさんの科学的エビデンスと云うエントリを読んだ。

針灸をして症状がなくなるのはよくあること。さらには癌が消えたり、腫瘍マーカーの数値が低くなることも臨床ではみられる。

その証拠?

その症状がなくなった本人が生きた証ではないのだろうか?

(改行位置を変更、リンクを取り去るなどで整形しています。以降同様)

鍼灸によって症状がなくならない場合も、同様にあるだろう。その場合、なくならなかったひとは、鍼灸に効果がない、と云うことについての生きた証と云うことになるのでは。いや、揚げ足をとってるんじゃなくて、素直に。

さらには「リコネクション」では痛みが消えたり、立てなかった人が立てたり、病気が消えるということもよく起こる。

これもその本人が生きた証。

これも同様。

立てなかった人が立てたり、病気が消えるということが起きなかった場合、どのように責任を取るのか。もらったお金を返して終わり、なのだろうか。それとも「患者が自分の自然治癒力を信じなかった」と云うことなんかを理由にして、患者の自己責任にしておしまい、なのだろうか。

もちろん、代替医療だろうと通常医療だろうと、医療行為が効果をあげる場合とそうじゃない場合はつねにある。なので、できるだけよい結果を得るために、より効果が見込め、よりコストの安い方法を模索することになる。どの症状に対して、どの手法がより有効である可能性が高いか。どの手法がより平準化可能か。それを見出し、共有しようとする試みのひとつが、科学的エビデンス

それでも多くの人は「科学的数値」や「科学的証拠」に頼る。

なぜ?

もちろんそれは、医療にあたるものが責任をもって施す、効果の期待できる医療行為を受けたいから。

エビデンスのある医療行為が万能なわけでは、もちろんない。ただ、エビデンスの存在は、その医療行為にどの程度の効果が見込めるか、を客観的に示し、その方法を選択することの正当性(あるいは非正当性)について根拠を提供する。
医療行為の結果はひとえに医師にも、患者にも帰することのできるものではない。そして、「科学的数値」「科学的証拠」は、その結果をもたらした種々の原因を検討し、適切な施療がなされたかどうかを判断するにあたっての、どちらにも偏らない礎として利用できる。

通常の医療行為として現在認められているものでも、あるいは代替医療でも、効果のあるものはその効果に応じた科学的エビデンスを揃えることが可能なはず。それは機序を証明すべき、と云う話じゃなくて、科学的な(つまりは共有可能な)手法で効果があることが確認できる、と云うことに過ぎないから。
特定の代替医療に従事するひとが科学的エビデンスの意義を否定する、と云うことは、その手法が効果の検証に耐えられないほど脆弱で、効果が見込めないと云うことをみずから認めるのとおなじことなのではないか。

五木寛之氏はこの対談本の中でこうおっしゃっています。

『医療従事者は「患者の人生を司る神」じゃない。それがあるとしたらおごりだ。と』

病気だと判断されてしまった人の中には「自分自身で治る力=自然治癒力」が宿りそれを信じれば「奇跡」は起こる。

わたしはそう信じています。

もちろん医療従事者は神なんかじゃない。通常医療であろうと、代替医療であろうと。
なので、自分がなにかを信じることで、そして患者に信じさせることで「奇跡」が起こせる、と云うような考えかたの方が、よほどおごりと称するにふさわしい不誠実さなのではないか、とぼくは感じる。