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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

Avengers

バンクーバーオリンピックが始まったわけだけれど、直前のフィギュアスケート特集が掲載されたNumberをつれあいが買って来ていたので読んだ。

Sports Graphic Number ( スポーツ・グラフィック ナンバー ) 2010年 2/18号 [雑誌]

Sports Graphic Number ( スポーツ・グラフィック ナンバー ) 2010年 2/18号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2010/02/04
  • メディア: 雑誌

興味深いなぁ、と思ったのは、ニコライ・モロゾフのインタビュー。

スケーターとしての人生は非常に短い。人間誰でも30歳、40歳となれば自分のことが分かるようになるかもしれないが、それを待ってはいられない。自分はこういう人間だ、自分はこういう表現をしたいと感じられるよう、内側から引き出してあげなければならない。

フィギュアスケートにおける「表現」と云うのは、その演技で使われる音楽の表現で。その曲のリズムとメロディを、氷の上の動きでいかに表現するか、と云うこと。 でも、その音楽そのものが、そもそも聴くものになにかを伝えようとする表現なのだ。だから、スケーターはその音楽が伝えようとするものを咀嚼し、自分自身の理解を自らの動きに仮託することで、演技を表現として成立させる。技術面はもちろんだけど、その演技を通じて伝えられてくる彼ら、彼女ら自身の思いの深みに、ぼくたちは感動を与えられたりするわけだ。

ちょっと感じたのだけれど、今回の男女シングル代表選手6人のうち年長の4人は、だれもが競技生活の継続そのものを危ぶまれるような大きな挫折を乗り越えてバンクーバーにたどり着いている。そのことが彼らの表現に深さを与えているかもしれない、みたいなことを、安直ではあるけれど感じたりもする。

フリーの演目と表現の取り合わせ、だけを考えてみる。

膝に致命的な故障をきたし、身体にメスを入れながらもはい上がって来た男は、演技のなかで3人の登場人物を演じ分け、喜びと悲しみ、陰と陽を表現しようとする。

おのれのうつけた行動の帰結として1年間を棒に振った男は、喜劇王のおどけた身振りの向こうにしみじみとした哀しみを透かして、見るものに届けようとする。

「一般国民」にその心をいったんは押し潰された女は、劇的で多面的な生涯を送った女を演じることで、その選手としての複雑で魅力的なアンバランスさをかたちにしようとする。

病によるセミリタイアから戻って来た女は、演技のなかのひとつひとつの動きに、情熱と意思の力をみなぎらせて、自分自身を観客に問う。

みんながんばれ。
あなたたちの演技は、あなたたちそのものだ。そしてぼくたちは、そのあなたたちの姿を見届ける。