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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ことばを使う

矢吹さんの5、6日のうだうだ/小学校通りの謎、あるいは《幽冥説に向って淡白なるほどに、物理においてもまた自から漠然たるの情あるが如し》(福澤諭吉)と云うエントリを読んでちょっと考えたこと。エントリの内容とは、いくらか関係あるかも、と云った程度。

現代を「科学万能」とか「科学至上主義」とかの言葉で括るヒトってまだまだ少なくないけれど、科学を至上のものと考え抜いているヒトなんちゅーのは、僕たちの社会では僅少であることは間違いない。だってもしそういうヒトが多ければ、これほどまでにニセ科学の類が猖獗をきわめるわけがない。

この「科学至上主義」みたいなことばがどう云う状況で登場するか、と云うと、そのおおむねがなにかしらの意見を揶揄する文脈なんだと思う。なんとか至上主義、みたいな形容が純粋に肯定的な文脈で使われることはない。

まぁ揶揄にも、その揶揄する対象に向けて批判的なものと好意的なものが存在するわけだけど。前者の場合、揶揄として成立させるためには、そのことばを使う当人が、「科学至上主義」と云うのがどんな意味を持っていて、どんなものを示すことばなのか、と云うのを充分に把握している必要が当然あって、さらにそのことばが相手(またはギャラリー)に届くような適切な使い方をする必要がある。矢吹さんのおっしゃるように、ぼくたちの暮らす世の中では「科学至上主義」と評されたときにそれだけで自分のことだ、と納得できるくらいに科学を至上のものと考え抜いているヒトはまずいない(職業的科学者含む)。

批判的な揶揄のための用語として「科学至上主義」と云う用語(もしくはそれに類するもの)を使うようなひとと、ブログ上で何度か対話したことがある。たいていの場合、ぼくはまずそのひとの使う「科学至上主義」と云う用語(もしくはそれに類するもの)の意味を尋ねる。そして、ぼくの質問に対して、納得がいくような回答が返ってきた経験はない。ぼくに理解させるための試みに着手するひとさえまれだ。
ぼくはそのひとが自分で使っていることばの、自分が使ううえでの意味合いを訊いているだけなのに。
ひっくり返すと、そのひとはその意味を自分で説明できないようなことばを使って、だれかになにかを伝えようとしている、伝えることができると考えている、と云うことになる。ぼくみたいにコミュニケーション能力の欠如を自覚している人間からすると、その自信、と云うか傲慢さが不思議に思える。

ことばは伝わらない。
そのなかでもいくらか理解されうるのは、対話の当事者たちがその依って立つ背景を共有している、そのわずかな部分だけで。だからぼくなんぞは少ない語彙の引き出しをひっくり返してことばを探し、なんとか意味を読み取ってもらえるようにたどたどしく並べて、少しでも多くを伝えようとする。よほど自分のコミュニケーション能力に自信を持っているひとでもないかぎり、ぼくほどひどくはなくても、まぁ同じようなものなのではないか、とか考える。でも、それでも伝わらない。努力の余地がまだあると思うから、絶望はしないけれど。

そして、そもそも対話にあたって言葉を使ううえでのそう云う努力を重んじないようなひと同士のコミュニケーションは、いかにそれがなめらかに交わされているように見えても、それに見合った水準での相互理解にしか行き着かないんじゃないかなぁ、みたいにも思う。そう云うものを、コミュニケーション、と云うことばで呼ぶのが適当かどうか。
そしてまぁ、ぼくら市井の一般人にとって、科学的であろうとすることは、個々の能力を超えて理解を共有するべく採用する手段のひとつで(手段なので、至上だのなんだのと云った形容にはなじまない)。その意味でも、科学を詐称して「美しい言葉」を定義しようとするような試みは、どうあっても容認するわけにはいかない種類の事柄なのだった。