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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

優劣の位相

ナショナル・ジオグラフィックハイチ、ブードゥーの信仰と地震と云う記事を読んだ。まぁ、きのう書いたエントリとも関連してくる話ではあるんだけど。

アメリカのテレビ伝道師パット・ロバートソン氏がハイチ地震を「悪魔と契約を結んだ」ブードゥー教信者に対する神罰だと発言し波紋を呼んでいる。

まぁ異教の神さまは原則悪魔です。キリスト教に限ったことではぜんぜんないと思うけど、でも歴史上キリスト教に関しては基本的にそう。これは印象にしか過ぎないのだけれど、歴史上いろんな異教とコンフリクトを起こしてきた歴史を背負った(そのなかであんまり綺麗事でもない混交も生じた)カトリックよりも、どこか原理主義的なにおいの強いプロテスタントのほうが、そう云う面での寛容さ、と云うのは少ないようにも思う。いやもちろんこんなおおざっぱな括りでなにか云おうとするのは間違いなんだけど。

で、ヴードゥーについては、ぼくにはほとんど知識はない。でも、親戚であるキューバサンテリアについてはもうすこし知っている。知っているとか云ってもぜんぜんたいしたことはなくて、こっちのコメント欄やこっちのエントリで書いたような程度。で、ぼくはヴードゥーサンテリアもブラジルのカンドンブレも、基本的にナイジェリアのヨルバ族の信仰がカリブ周辺でキリスト教その他と習合してそれぞれにローカライズされたもの、みたいに思ってたんだけど、記事のなかでインタビューを受けているウェイド・デイビス氏によるとベースになったのはもっと汎アフリカ的な信仰みたい。

現代のブードゥー教には複数の宗教の伝承・信仰が融合し、中にはキリスト教カトリックとの習合も見られます。西アフリカが起源と思われますが、その文化および宗教はセネガルからモザンビークまでアフリカのほぼ全域の影響を受けているのです。

まぁいずれにせよアニミズムをベースにした多神教、とは云えるのだと思う。

でまぁ、アニミズムだし多神教だし儀礼のかたちはそりゃキリスト教徒は違う。でもキリスト教と違うから邪教だ、みたいな話はもちろん通用しない。キューバサンテリアなんかちゃんと大使館のページで紹介されているから、邪教扱いするほうがかえって馬鹿みたいだ(だから邪教だ、とか云いだすアメリカ人とかいるかも、みたいにもちょっと思えていやな感じだけど)。どんな宗教も信じてる人間からすると邪教ではない。あたりまえ。

信仰者がいる宗教だから、じゃあなんでも許される、みたいな話じゃなくて。宗教が政治と結びついて好ましからぬ抑圧に利用されるようなことがあればそれはもちろん望ましからぬ事態だし(ヴードゥーにもトントン・マクートの背景となるような側面があるようだし)、そうじゃなくてもそれが不当に人権を抑圧するようなことがあれば、それは解消されるべきで。

ただ、それは単純に、どの宗教がすぐれているとか、どの宗教は悪魔の業だとか云う水準で語られるべきことではない。「信じる」と云う位相においては(そしてそのことに伴う機能においては)本来宗教間に優劣はない。仮にそれが論じられるとすれば、それは「信じる」こと、と云う要素を排除した位相においてのみで、それ以外を許容してはいけない。そして、そのことを論じることを可能にする位相の基盤として機能しうるのは、たとえば(文系・理系を含めた)科学だ。

痛ましい惨禍に見舞われてもなお、ハイチの人々は信仰に慰めを見出すことでしょう。それはキリスト教徒もブードゥー教の信者も同じです。耐え難い困難に直面する者ならだれでも違いはありません。災害の絶大なスケールが適切な埋葬儀式の可能性を排除したという事実は、死者をたたえるすべてのハイチの人々にとっての悩みの種と悲しみをもたらすでしょう。いずれ、この深い悲しみを癒す機会が設けられるかもしれませんが。

この意味では、ひとが生き、暮らすこととともにあるすべての宗教が、同様に尊重されるべきだ。もちろん(ひとが生き、暮らすこととともにあることができない)カルトは別だけれど。
そして、「信じる」ことに基盤を置いて成立している思想が、普遍性を標榜するために科学を装うのは、許容されるべからざる詐術だと思う。江本勝氏の思想に限らず。