Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

対立構図と意識

今週末コミックサイエンス撲滅委員会なるものが盛り上がっていたみたいで、たぶん活動開始となったらぼくなんかにも関係ある話なのかどうかわかるのかなぁ、みたいに思っていたところで、広告業界でお仕事をしてらっしゃるらしいtaraさんのコミックサイエンスwと云うエントリを読んだ。

水に感謝する云々、マイナスイオン云々、コラーゲン云々などなど枚挙に暇はありませんが、こうして名前がつくと対立構図がはっきりして、喧嘩しやすい状況ができるわけですね。じゃんじゃんやってほしい。

ぼくを含めてそれなりの人数の論者が、対立構図がはっきりすることによってこぼれ落ちる可能性のある事柄が存在することに対するいくらかの懸念を抱いていたから、これまで例えば「ニセ科学批判陣営」みたいなものが生成されずに来たのだ、とぼくは思っている。ニセ科学の問題へのコミット、と云う面ではぼくと立ち位置の近い論者の方々とも、個別の論点では見解の相違はあるし、そのことについて議論をすることはあっても根本的にその相違を根絶すべき、と云うような考え方はぼくはあまり持たない。そもそも問題が相当の裾野の広がりを持っている、と云うのが基本的な認識なので、論者の視点次第で問題を構成する要素間の遠近が変わってくるのは当然だと思うし、そのことは視野の広がりにもつながるので、それそのもので尊重されるべき重要な要素だと思っている。

で、だからと云って、とりたてて「喧嘩しづらい状況」のようなものがあったわけではない、と云うのがぼくの実感。ただはために見て、その喧嘩のアウトラインが見通しづらい、と云うのはあるんだと思う。ただし、問題が個別のニセ科学それぞれにある、と云う(ぼくなんかの)捉え方からすれば、その見通しづらさそのものはとくに問題となるようなものではない。ギャラリーとして楽しもうとすれば(あるいはそこで商売でもしようと云うのなら)別だろうけど。

でも、感謝の心が大事なのも事実。それをただ念仏のように唱えても説得力が弱いので、身近な水を媒介に使う。これも正しいと思っています。

感謝の心はひとに宿るもの。それを説くにあたって、水を媒介に使うことそのものが、多くの場合批判の対象にされてきたのだけれど。まぁ広告業界のかたから見れば、説得力が弱いことは致命的な瑕疵ということになるんだろうし、その瑕疵はどんな手口を使っても補われるべきだ、と云う発想にもなるのかもしれないけれど。

だって、科学を信じるけど感謝の心を持ってない人よりは、科学的知識は無いけれど感謝の心を持っている人になりたいですもの。そういう人と付き合いたいですもん。

その感謝の心と云うものがコントロールされて、地獄への道の舗装に使われてきた例は多々あると思うのだけどね。科学を装うことがコントロールの技法として有効である以上問題視する、と云うスタンスは、多くのニセ科学に言及するひとたちのあいだで共有されていると思う。

まさに、唯物論と観念論の戦い。魂って、あるの?無いの?という議論。

突っ込まないけど、ぜんぜん違うんじゃないかな。そんなにわかりやすく括ってしまえる議論でもないですよ。

人間にとって何が大事かという問題なのです。もちろん、それが詐欺的に使わるのは良くないとは思いますが、霊感商法みたいに、科学的であろうとなかろうと詐欺が発生するのも事実。その線引きって、難しくて誰にもできないと思うよ。アメーバブログも、そんなこといったらほとんどのアカウントはコミックサイエンスです。それが日本一なんだから、日本人が何を求めているの?という一端がここにも現れているということ。

それがどんなものであれ、求められているものである以上提供するのには問題はないはずだ、と云うロジックが広告業界なんかにあるのはなんとなくわかる(覚醒剤の売人にも三分の理としてあるんじゃないかな、と云う気もするけど)。
このその線引きって、難しくて誰にもできない(はずだ)みたいな認識が、いまのマスメディアや広告に従事するひとたちの考え方の根底にはあるんだろうな、みたいに感じることはけっこうある。昨今のマスメディア不信・広告不信は、そのへんをエクスキューズとして利用するような意識が、これらの業界からのアウトプットにもにじみ出てきているのを受け手側にも見て取ることができる環境がそろってきた、と云うあたりに端を発しているのではないかと思ったり。

でも議論って大事だから、コミックサイエンスという俎の上で喧嘩が繰り広げられるのは賛成。というか、単なる野次馬かな。面白い展開、期待してます。

広告業界的には、それもまた素材、と云うことなんだと思うけれども。