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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

望むもの、望めること (「獣の奏者」上橋 菜穂子)

正月休みに本を何冊か読んだのだけれど、そのなかにこれも。

獣の奏者〈1〉闘蛇編 (講談社文庫)

獣の奏者〈1〉闘蛇編 (講談社文庫)

  • 作者: 上橋 菜穂子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/08/12
  • メディア: 文庫

獣の奏者〈2〉王獣編 (講談社文庫)

それで、上橋菜穂子の小説にぼくが惹かれる理由をすこし考えた。とても簡単で、それは、その紡ぎだす世界がわかりやすい正邪のくびきを逃れているから。

彼女のファンタスィの登場人物たちは、なべてその(架空の)社会のなかでの政治的・文化的状況を背負って行動している。個を描写するときに、そこでその抱えている(抱えざるをえない)社会的な状況から分離したもの、とはけして描かれない。彼らの属する共同体は、そしてその共同体を同時並行的に擁する世界は、単純に彼らの正義を裏書きするだけのものでも、闘って打倒するべきだけのものでもない。

登場人物はすべて、彼らの場所において正義であり、善だ。そうして、その社会では複数の対立する善が、正義が存在する。物語はその軋轢によってドライブされていく。帰結はあくまでかりそめのもので、それはかならずしもすべての問題がクリアされた状況ではない。その場所は対立する価値観が、倫理が互いに摩擦を通して接した結果として、とりあえず辿り着きえた結論、以上のものではない。
そしてそれは、じっさいの社会のなかでぼくらが望みうる、辿り着きうる最善の場所だ。
おそらく重要なのは、登場人物それぞれの視点と視野の相違、なのだろう。どれだけの視点を取り込めるか、どれだけの広がりをその視野のなかで得られるか。そして、そのうえでどのように行動を選択するか。

以前にも書いたように思うけれど、ハイ・ファンタスィと云う手法の大きな利点のひとつは、著述したいテーマに対して必要な要素のみを抽出して物語を構築することができること。そこに描かれていることがすべて、と云う世界をつくりだしてしまえること。逆に、そこになにが描かれているか、と云う部分に着目することで、作者が伝えたいことは読む側からもほぼ遺漏なく読み取ることができる。

このシリーズはジュブナイルだ。そしてぼくは、この物語に対して「おとなの鑑賞に耐える」と云うような陳腐な形容はしたくない(まぁそもそもこの形容がちゃんと称揚として意味があるものなのか、以前から疑問ではあるのだけど)。読者がおとなだろうとこどもだろうと、読み取りうるものはすべて注意深く丁寧に提示されている、と云うのが上橋菜穂子と云う作家の美点だ、とぼくには思えるので。