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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

復信

よしなしごと

こちらで触れたように主催の双風舎から終結宣言が出されていた「斎藤環と茂木健一郎の往復書簡『脳は心を記述できるのか』」に、なんと2年半の長考を経て茂木健一郎の返信「第2信 クオリア、そして偶有性」が掲載された。
ので、読んでみる……のだけれど、正直よくわからん。

よくわからんのはもちろんぼくのあたまが悪くて知識が不足しているからなんだと思うんだけど、なんか茂木さんのいつもの「一読するとなんかわかった気になるけど再読するとわからなくなる」式の美文とはとりあえず違う印象。

クオリアの問題を考えるということは、とりあえずのスタンスとして、「言語」以前の体験世界のリアリティを認めるということがなければならない。そのように私は考えます。ここでは「言語」という概念を、通常の含意にもとづいて使っています。

斎藤環が往信で「倫理」とはこの反省的判断力によって導かれる、超越論的なメタ価値を指しています。それゆえ他者性への配慮、とりわけ最大の他者であるところの「象徴≒言語」への信頼なくしては成立しません。と書いている意味での「言語」と云うのは、その当の「言語」以前の体験世界のリアリティから個人のなかに立ち現れてくるものをひとまず個人の外部に持ち出して、異なった個々人間で理解の共有を試みる(あるいは相違する価値観の調整をはかる)ためのなかだちをするツール、と云う意味合いを持っているはずで、前後の文脈からしてそこに通常の含意しかこめられていないはずはない。その文脈上で斎藤さんは(意図する・せざるを問わず)理解ではなく情緒、または漠然とした気分だけの共有を誘うことを目的とするような、あまつさえそのうえに美や倫理を定義するロジックを組み上げて言説に接するものに呑み込ませようとするような、茂木さんのパブリックな場における(ノンバーバルなものを含めた)「言語の使いかた」を批判しているのではないのか。寝ぼけあたまのぼくでも読み取れる文脈をあたまのいい茂木さんが受け止めずに話をこう云う方向へ持っていこうとするふるまいは、控えめに云っても韜晦に見える。書き方が小難しいのでごまかされそうになるけど(ヴィトゲンシュタインなんかなんのために持ち出してきたんだか。ぼくみたいな不勉強な読者をびびらせるためか。そりゃびびるけど)。

あるものの価値が相対的で、底が抜けているとわかっているからといって、「いま、ここ」でその価値を取りあえずは信じることが、否定されるわけではないと考えます。

取りあえずは信じることですか。
ここのところ、たぶん前段にあるローレンツ変換が云々、みたいなところからつながってくるんだろうけど(意図的なのか単に推敲してないだけなのか、文章全体でへんに論旨がとびとびになっている感じがある)。でも斎藤さんが問題視していたのは、取りあえずは信じることとかそれにもとづいて探求することとかの是非みたいな話じゃなくて(それはひとりの学究の姿勢としてはとくに問題視されるようなことではないはず)、そのうえで現に茂木さんがどのような行動をパブリックになしているか、ではなかったんだろうか。

今回の茂木さんによる復信のどのへんが斎藤環の往信への返答になっているのか、はぼくなんかにはさっぱりわからない(正直単なる所信表明みたいにしかぼくには読めない)。斎藤さんのさらなる返信を読めば、もうちょっと理解できるのかな。でもそれ以前に、こんな姿勢で対話でござい、みたいなスタンスのひとに斎藤さんは今後もつきあうのかなぁ。