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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「癒す」こと

こちらのエントリで12/3付でうさぎ林檎さんがコメント欄で提供してくれた情報について、ここしばらく考えている。精神疾患に対する、代替医療の使用について。

考えているのだけれど、いずれにせよ結論は出ない。それは神経疾患に対する医療の現場において、どのような原則にもとづきどのような医療が実施されているのか、を概観できる視野をぼくが持たないから。にもかかわらず、この部分はどうしても重要なことがらに感じられて仕方がない。なのでちょっと、議論のとば口だけを書いておこうと思う。下敷きにできるサンプルはひとつだけ、なのでその程度の話でしかないけど。

うつ病なのか、それとも単なる抑鬱状態なのかはわからない(この点では、医師も患者にじっさいの所見をそのまま伝えるとは限らない)。ただそれはよく云われる心のかぜ、と云うものよりは、むしろやっぱりけがに似ている。足首のひどい捻挫、みたいな。
できたはずの思考ができない。下せたはずの判断が下せない。自分の心を本来使えたようなやりかたで使えなくて、苦しい。自分の心を向かうべき方向に向けられなくて、いつまでも迷ったままの状態におかれているようで、つらい。考えることができないので、ものごとの価値も判断できない。結果、なにも大事ではなくなる。自分自身も。この状態から脱することができれば、自分自身でさえどうなろうと構わない。そんな状態。
そこからの脱却に、向精神薬はときに、劇的に効く。

もちろんそれは、自然で健康な心の状態はもたらさない。捻挫した足首にくくりつけられる添え木のように。そうして、その引き起こす副作用はとても苦しく、鬱陶しい(比較的副作用が軽微、とされるものでも)。足首を固めるテーピングのように。そして、とにもかくにも、歩き出すことはできるのだ。まったく進むことのできなかった状態とは違って。

できればとっとと外してしまいたい添え木は、どこにもいけなかった心を動けるようにしてくれる。それはできるだけ早く外してしまいたいには違いないけれど、まったく歩けなかった状態とはあきらかに違う。苦しみが失われたわけではないけれど(そしてそれそのものが引き起こす苦痛もあるけれど)、それでも進めない状態ではなくなる、と云うことは大きな意味を持つ。生きていること、そのものについて。

じっさいにうつ病、あるいは抑鬱状態が器質的な原因によってもたらされる部分が大きいのか、それとも環境なんかの影響が大きいのか、それはわからない。それは患者に対してはシークレットだ。そして心療内科医・神経科医と云うのは、おそらくはほかのどんなジャンルの医者よりもより多くの呪術を駆使する。薬物がめざましい効果を上げたところで、それがはたしてどれくらいプラシーボにもとづくものなのか(つまりは医師の技倆が生み出すものなのか)はじっさいにはわからない。
神経内の物質をいじくる薬物が効いているのか、それとも処方されている、と云う状況が効いているのか。正直、患者としてはだいたいどちらでもいい状況にある。ともかくも歩き出せる、そのありがたさを感じながら、副作用に耐えることになる。

それはもちろん、不安はある。この医師は、どれだけ自分の苦しさをわかってくれてるんだろう。もちろん客観的に考えれば、患者のその場での気持ちを理解することが、医師が治療をほどこすにあたってそれほど重要ではないことは理解できる。ただもちろん、そう云う状態で心は客観的な判断には簡単に従えない(そう云う力がない)。結果的に患者は医師にすべてを委ねるしかなくて、それが受け入れられない場合はドクター・ショッピングに乗り出すことになる。

苦しみをわかってくれること。そのうえで、苦しみを取り除いてくれること。つまりは、癒してくれること。つらいギプスを、苦しい副作用のある向精神薬を用いることなく。なんて、魅力的なんだろう。
そうしてたぶん、それを代替医療で実現するのは不可能ではない。すべての患者に対して可能だ、と云うわけではないだろうし、もちろん施療者の力量にもよるだろう。ある状態、ある種類の精神疾患に悩む患者に対して、患者の苦痛を最大限に抑えるかたちでホメオパスが「癒し」を提供することができる可能性は、あるのだろうと思う。

今回このエントリを書くにあたってちょっとだけだけれども、例えばホメオパシーに従事するひとたちが精神疾患に対してどんなスタンスを取っているのか、を調べてみた。どうやらホメオパシーをヒーリングと同じ文脈で捉える傾向があるらしい(そしてなんとかセラピーとかなんとかヒーリングと習合・併用させる傾向が高いらしい)ハーネマン・アカデミー系のひとたちに、これらに対する言及が多いのかな、みたいな印象を持った。それはそれで、当然のようにも思えるけど。
今回については、例を挙げて論じるのはやめておく。

自分の心が思い通りに機能してくれない苦痛のなかで、副作用もなく自然に癒しを得ることができる、と云ううたい文句は、どれほど甘美に響くことだろう。拘束の不自由さもリハビリテーションの努力もなく機能が回復できるのなら、もちろんそれ以上のことはない。

もちろんそれをもたらすことのできる治療者はいるだろう。しかし、そこにはどれほどのスキルが要求されるのだろうか。そしてそのスキルは、それに伴う責任は、薬効のない医薬類似品を「信じる」ことで、文化に支えられていない呪術をノウハウとして用いることで、支えられうるものなのだろうか。

副作用のある医薬品を用いることも、自分の心を支えられる準備ができた患者に対してリハビリテーションを強いることも、医師は使命感と患者の寛解へ向けての意思を背負っておこなうのだろう、と思う。それだけの同じ覚悟が、代替医療を用いる側にはほんとうにあるのだろうか。