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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

【メモ】 「自然」はさいなむ(続き)

少し前のエントリのコメント欄で、satomiさんにいただいたコメントが、いろんな重要な論点を含んでいるように感じている。

そのコメントに対してぼくが書いたお返事がなんだか(自分でも)雑に見えるのは、そこにある論点をどう捉えるべきなのかぼく自身ちゃんとした視座を持てていないからで、早い話が勉強不足と云うことでもあって。なので、今後いつかたどりつけるかもしれない、もうすこしましな理解へのメモとして、自分自身のためにちょっと細かく考えてみる(ちょこまか引用しながらになるけれど、うちのコメント欄にお寄せいただいた内容なので、いいですよね? >satomiさん)。ぼく自身の理解の限界を示すことにもなる、と思うけれど。

一昨年、アマゾン先住民族の長老であり呪術師でもある人が来日した際に、通訳者兼お世話係として密着する機会を得ました。
2週間共に行動しながら確信したのは、呪術というのは「その時」「その場」「呪術者とその人との関係性」において成り立つ一期一会のオーダーメイドのものなのだな、ということです。

ラボラトリーの中で機器類によって規格生産された既製品であるレメディなど、えせ呪術にしかなり得ない、と感じます。

ぼくは例えばホメオパシーも運用によっては「その時」「その場」「呪術者とその人との関係性」において成り立つ一期一会のオーダーメイドのものとして機能しうるし、そう云う運用が実施されているかぎりにおいては、いっさいの効果が期待できない、と云うわけではない、と考えている。ひとはかならずしも物理的な側面からのみ捉えられるべき存在ではないし、「病は気から」的な部分もけして軽視していいものではない(そしてその意味で、医療に求められるものはかならずしもその自然科学的な側面だけではない、と云うことはこちらでも書いた)。
そして、その理屈から云うとラボラトリーの中で機器類によって規格生産された既製品であっても、かならずしも呪術の材料とならないわけじゃない。そこにある呪術的原理と「その時」「その場」「呪術者とその人との関係性」をそろえることで、それは有効に呪術を発動させうる。

させうる、と書いたけれど、それは簡単にできる、と云うことじゃない。と云うかむしろ、発動させうるための条件をそろえるのはとても難しい。その呪術を下支えする自然環境・文化の充分な厚みと、もちろん呪術師本人の力量も必要になる。どこでも、だれにでも、と云う普遍性を獲得するのは、原理的に不可能とは思わないけれどとても困難だ。

科学はそう云う諸条件を超えた普遍性を獲得しようとするいとなみだ。だから、下支えとなる環境的・文化的な厚みを持たない呪術が普遍性を主張しようとするとき、場合によってはそれは科学を装うと云う方法を選ぶ(かならずしもそれはあからさまに「科学である」ことを標榜するわけじゃなくて、「実験によって確かめられた」と主張するだけにとどめる場合もあるけれど、これは同じこと)。ホメオパシーを含むある種のニセ科学は、「呪術的な効果の源泉を『科学的であること』に求めるもの」と云ってもいいかもしれない。 現状を見るかぎりそれはおそらく、歴史の浅い呪術がその浅薄さを埋めようとするときに採用するわりあい典型的な方法なのだと思う。血液型性格判断しかり。

200年前の呪術的なものが色濃い社会に生きていたヨーロッパの人びとにとってホメオパシーの登場は、実験室で誕生した科学的な装いの治療法として、従来の呪術を否定する近代文明の香りあるものとして受け止められたのではなかったでしょうか。

このことはあるだろうな、と思う。200年前にはホメオパシー未科学であってニセ科学ではなかった、と云うこと。そしてホメオパシーに限らず、「その時点ではニセ科学ではなかったもの」と云うのはいくつもあるだろう。

でもそれは、現時点ではニセ科学だ。こちらでも書いたけれど、それはその200年の歴史のなかで、ホメオパシーにたずさわるひとたちが、ホメオパシーを科学として成立させようとしてこなかったから(逆に云うと、科学たらんとする努力を積み重ねていれば、その過程でホメオパシーそのものが捨て去られていた可能性も高いわけで、ニセ科学だからいままで生き延びることができた、とも考えられる)。

科学を装いつつ、実証を求められる場面では「自然」や「呪術」をほのめかす。消費者は、自分が見たい部分だけを見て勝手に納得してくれる。
科学の詐称であると同時に呪術の詐称ではないのかと、アマゾンの呪術師と出会ってみて、そう思えてなりません。

だからその意味で、ホメオパシーニセ科学であるだけではなく、ニセ呪術でもある。

ずいぶんまえに、菊地誠の「ぼくたち(の社会)はすでに科学の方法を選択した」と云うことばにかみついたことがあって(ここのコメント欄でのことだと思うけど、ちょっと見つからない)。何度も書いているけれど人間社会において呪術は効くし、呪術的原理をある社会のなかで有用なものとして活用している宗教はいくつもある。

ただここで、最初に引用した部分にもかかわってくる、ちょっと別の論点がある。ある社会、ある文化において呪術的なもの、宗教的なものが有用である、と云うのがどう云うことか、と云う部分。

女子割礼は有用か。こどもたちを対象にしたウィッチハンティングは有用か。ここでぼくは口ごもってしまう。いやもちろん、自分自身の感覚にもとづいてなにかを云うことはできるのだけど、それを「あるべき視点」として提示することは現時点のぼくにはできない(それはぼくと云う、特定の文化圏に暮らす人間の価値観にもとづいて、ほかの文化圏の価値観を問う行為なので)。ひじょうに無責任な云いかたにもなろうけれども、(根本的に文化相対主義的な志向を持つ)ぼく個人としては、その文化圏に所属するひとたちが、おなじ文化圏にいるほかのひとたちの得べき選択肢を狭めない方向に、自分たちの文化を変容させていくことを期待するしかできない。それは、女子割礼について小田亮さんがお書きの西ケニアにおける「女子割礼」についておよび再び女子割礼/女性器切除FGMについてと云うエントリに書かれているようなことでも、多分あって。

ただいずれにせよ、今日ではどんな文化も孤立できない。文化圏同士が接点を持たないまま存続できるほど、いまの世界は広くない。なので、いやがおうにも文化に基づく価値観の衝突は生じるし、それは長い目で見ると調整に向かうのだろう、と思う(ここでガムランと云う芸術を通じてぼくが理解した範囲での「バリ社会の文化的戦略」みたいなものにも触れようと思ったけど、いまはやめにしておく)。それがいいことなのか悪いことなのか、については複数の視点がありうるのだろう。

彼らは人権の保障や生活改善支援を求めて常に政府に働きかけを行っています。医療の充実も要求のひとつです。「呪術では治らない病気」のために、彼ら自身の要望によって、村には抗生物質など種々の医薬品を備えた政府の保健ポストが設けられ、看護師が常駐しているそうです。

私は、森の精霊の声を聞く呪術的世界観というのは、過酷な自然に生きる人間が、本来人間には無関心である(だからこそ厳しい)自然をなんとか人間の側に引き寄せて折り合いつけて生き抜くための智恵なのだと理解しました。そのベースには人間の幸福の希求がある。彼らにとって現代医療とは、「呪術が現代医療に屈した」とかそういうことではなくて、生き抜く智恵や幸福の希求のあらわれのひとつとして、呪術と地続きにつらなるものだと思うのです。

ここでsatomiさんがおっしゃっていること、それこそがまさにその文化の持つ「智恵」なのだと思う。どちらを信じるとか信じないとか、そう云った次元のことではない。

特定の文化に固有の世界観は、かならずしもそれ以外のメソッドによる視点を排除するとは限らない。本来そこになかったメソッドを内包しとりこんでいく柔軟さと、にもかかわらずその文化が立脚する諸条件に由来する本質を維持していく強靭さをあわせもつことが可能なのだ(それが可能にならないような原理主義的な硬直性が生じる場合があるのはなぜか、と云う論点も存在するだろうけど)。

「現代文明社会」に生きる人間が、現代医療をまるで外部からの侵略者か何かであるかのように捉えて、自然か現代医療かの二項対立に仕立てた末に否定に走るというのは、とても奇妙なことに思えてなりません。(キミたちは奇妙だね、と長老に笑われそう・・・)

ここでぼくはまた、口ごもってしまうのだけど。その奇妙さがどこから生まれるものなのか、意味のある推測を端的に述べるためには、ちょっとまだ勉強が足りないので(頭が足りない、とも云うかも)。