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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

しくみが発動する

ナイジェリアのウィッチハンティングについて、kumicitさんがナイジェリアのウィッチハンターと云うエントリに続いて、終わらないナイジェリアの牧師たちのウィッチハンティングと云うエントリをあげていらっしゃっている。

このふたつのエントリを読んで、感じたことをすこし書く。

強く感じ、そして慄然としたのは、中世ヨーロッパを中心に生じた、一般に云う「魔女狩り」との類似。いやそりゃ魔女狩りだから似ていて当たり前だろう、おんなじだろう、と云うことではなく。
社会環境の変化(近代化、と呼んでいいものか)とそれに伴う共同体の変容。経済の流れの変化と、そこであぶりだされる共同体内の弱者の存在。

旧来の共同体内で共有されてきた価値観が変わっていくなかで、そのなかで扶養されてきた弱者をどう取り扱うか。取り扱いかたの基準はどこに求められるのか、なにが供給するのか。

たとえばそれは、宗教(偶然にもここでは、その宗教はおなじキリスト教)。

中世ヨーロッパのキリスト教国すべてで、魔女狩りがひとしなみに猖獗を極めたわけではない。そこで採用されたウィッチクラフトの判断基準は、たとえば現代ではウィッカとしてみられるようなキリスト教以前の信仰のスタイルであるけれど、それらを対象として魔女狩りが盛んになるには、それが強烈なアンタイ・クライストとしてはっきりと認識された地域だけだ(隣接するスコットランドイングランドで、中世における魔女狩りの広がりかたは明確に違った。イングランドではいまもウィッチクラフトをモティーフにしたスピリチュアリズムがつよい命脈を保ち、昨今の日本の俗流スピリチュアリズムにおいても「本場」扱いされてしばしばもとネタとして使用される)。
この地域差については複数の理由が考えられるけれど、ひとつ云えるのは、その地域と地域社会の状況において、善悪の判別の基準とされる「アンタイ・クライストは絶対悪である」と云う「真実」の供給元として教会にどのような役割が求められたか、と云うこともあるかと思う。

kumicitさんのエントリで紹介されているのは、中世の事例ではない。いま、ぼくたちが生きている時代に起きていることだ。
そしてそれは未開で野蛮な習俗によって引き起こされているのではない。その行為に正当性をうらづけているのは、キリスト教福音派だ。もちろん、それは単純にキリスト教信仰が危険だ、と云うことを意味しているのではない。ただ、それは求められれば、400年前と同様に魔女狩りを引き起こすためのトリガーとして、そしてそれを支える「真実」を供給するものとして、現在でも機能しうる、と云うことだ。

キリスト教を背景にした大規模な魔女狩りは、近年ほとんどのキリスト教国で生じていない(このことには教会側の数百年にわたる努力もある、と思う)。でもそれは、ぼくたちが中世よりも道徳的に進化しているから、ではない。おなじメカニズムはぼくたちの心のなかにいまでもある。そしておそらく状況と、「信じるべき真実」と云うトリガーがそろえば、いまでも発動する。ひとのこころのなかから生じるものだけに判断の基準を頼り、それを「信じる」ことによって、ぼくたちはいまでも「魔女狩り」と云う「善意にもとづく正義のおこない」を実行できる。
そしておそらく、それはぼくたち人間の「自然な」すがただ。

程度問題であり、バランスの問題である、と云うことは前提において。
みずからの「自然な」感覚に信頼を置き、それに従って行動するのを是とすることは、一面では(いま、この時点でも地球上で生じている)魔女狩りの合理性を肯定することにつながる。そして、それを否定する視点は、その外側にしか求めることができない。そして科学は、その「外側からの視点」の謂でもあるのだ。