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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

社会と文化、表現(おぼえがき)

なんとなく以前から興味のあった、こんなCDを聴いた。

台湾先住民の音楽

台湾先住民の音楽

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2008/07/09
  • メディア: CD
 

以下、おぼえがきをばらばらと。これまで書いてきたいろんなことと関係するようなしないような、断片。

そもそもの興味

ぼくはほとんど外国旅行をしたことがないけれど、台湾だけは複数回行っている。街中人間なので、台北だけだけど(でも最後に行ったのはもう数年前)。
観光なので観光客が行くようなところに行って、あとは街のあちこちを歩いて行ける範囲でうろうろ(あと捷運でちょっとだけお出かけ)。ガイドブックで面白そうなところに目をつけておいて、それから興味を惹いた店なんかを見かけたら適当に。基本的に夜中に出歩いていてもあんまり怖い目にはあわないし、なんとなく看板も読めるので、けっこう気楽。

で、CDショップなんかにも入る。何枚かは買って帰ったりもする(昔は日本の音楽の妙な海賊盤コンピレーションが面白かったりもしたのだけど、最近はどうなんだろう)。で、そのなかにDifangとかSamingadとかが混じったりしていた。
もうひとつあるのは、小泉文夫なんかをななめ読みしていると、ときおり「民族の文化と音楽の機能」みたいな文脈で台湾原住民の音楽が引き合いに出されること。

民族音楽を聴く

ここではガムランについてあれこれ書いたりしているけれど、そもそもぼくは民族音楽好きと云うわけじゃなくて。そう云うものを聴くときには、なにかしら興味を惹かれるまでの流れが個別にある。例えばカッワーリーを聴いてみたい、と思ったのはいとうせいこうワールズ・エンド・ガーデンを読んだのがきっかけだし、中南米の音楽を多少聴くのはそもそもの北米の黒人音楽への興味(これはこれで、もともと本籍地であるロックからの訴求溯及)からの流れが半分、あとはキューバ音楽に近接した生活環境から。
なので包括的に文化と音楽の結びつきを理解しようとするような、アカデミックな聴きかたはそもそもしない。しないのだけど、散発的に聴いているとそう云うものが聴いているぼくのなかでつながってくる状況が生じたりする。ある地域の音楽にはこんな要素があるけれど、それは別の地域の音楽の要素がこんなふうに入り混じることでできあがっているのだなぁ、みたいな(こっちで書いたような感じで)。個人的な文脈での、各論としてのプチ音楽史。これはこれで面白い。

ブリコラージュとしての「ロック」

こう云う文脈であまりちゃんと理解できていると思えない用語を使うのは、自分でもどうか、と思うけれど(と云うか、たぶんこれから書くようなことはもうすでにだれかがどこかで云っているんだろうけど)。

ぼくらの世代では、音楽を意識して聴くにあたってのとばぐちがロックだった、と云うのはそんなに珍しくないと思う。ぼくもそう(いまの若いひとたちなんかはどうなんだろう)。
ロック、と云うのは、おおざっぱに(ものすごくおおざっぱに)云うと白人がシカゴブルーズのまねをする、と云うところから始まった音楽で。演奏者側に「こんなのがやりたい」と云うのがあって、「こんなのをやってるひとたち」としてのブルーズマンたちがいて。
で、核になるのは「こんなのがやりたい」と云う意識と云うか意思と云うか、そう云う部分。なのでまねをする、と云うか外部から取り込む音楽的要素は、やりたいことに対してちょうどいいと感じたものならなんでもいい。クラシックでもレゲエでもアイリッシュ・トラッドでも。ミクスチャー・ロックと云う言い回しがあるけれどロックってのはそもそもの最初からミクスチャーで。

ただここで重要なのは、「取り込む」ことと「おなじことをする」ことの違い。それは取り込む対象と「こんなことをしたい」と云う意思の距離。昨今巷で「ロック」と呼ばれているものに対するぼくの違和感はこのへんから生じていて、それはそれらが取り込む/まねる対象として「ロック」を選んでいる、と云うメタな状況が感覚的にしっくり来ない、と云う程度の話なんだけれど。

ともかくも、ロックはそもそも「息子」。ブルーズだけじゃなくて、そのサブジャンルごとにいろんな「親」がいる。「親」を理解することはそのロック・ミュージシャンがしたいことをより深く知ること、ひいてはその音楽に感銘を受けた自分を知ること。民族音楽をぼくが聴く角度は、じゃあその「親」に接しよう、と云う部分から発端している、のだと思う。

台湾における現在の原住民音楽の位置づけ

以下、詳しいわけではぜんぜんないんだけど、ぼくの把握(ちなみに台湾での原住民、と云う呼称は自称でもあり、蔑称としてのニュアンスはない)。

さきに挙げた故Difang(郭英男、アミ族)のCDをぼくは2枚持っている。彼は1998年に最初のアルバムをリリースしているのだけれど、その時期と前後して台湾の音楽界に原住民の音楽家が注目されはじめる状況と云うのがあった、らしい。Difangの場合、彼と彼の部族が受け継いできた歌、あるいはそのフォーマットを踏襲した歌に現代的なスタイルでの伴奏をつけたものをリリースしている。もうすこし表現者個人を前面に出しているけれど、Samingad(紀曉君、プユマ族)なんかも近い発想。どちらにしても受け止められ方はポップ・ミュージック。ただし、彼らの民族が受け継いできたものを音楽的リソースとして活用するかたち。

ちなみに原住民出身のミュージシャンとして筆頭に挙がるのはA-mei(張惠妹プユマ族)だと思うけれど、ぼくの聴いたことがある範囲では彼女はとくに自分の民族における音楽的リソースの活用をその音楽活動の主要な要素に据えてはいない。今年リリースされた最新アルバムは本名(と云うか民族名)の阿密特の名義なのでそう云う方向のものなのかもしれないけれど、聴いていない。
ほかにも原住民出身の歌手は何人もいるけれど、YouTubeで接したことがある程度なので詳細はわからない。ここで述べたいのは、原住民が受け継いできた音楽が、現在ポップ・ミュージックを構築するにあたっての源泉のひとつとして認識され、使用される状況にある、と云うこと。

このCDについて

収録されているのは、小泉文夫による19751973年の採録。なのでどちらかと云うとアカデミックな意図にもとづいていて、聴いて楽しむためのものではない(だから楽しめない、と云うわけじゃない)。このへん、ノンサッチから出されているデヴィッド・ルイストン録音による2枚、Music From The Morning Of The WorldおよびGamelan & Kecakに通じるものがある。

納められているのはほとんどが声楽。当時認められていた10の民族すべてから採録されているので、とてもバリエーション豊か。ただこれは学術資料としての意味合いをつよく持っていることの顕れでもあって、なので「こんな感じの音楽を流したい」とか「こんな音楽が聴きたい」みたいな発想でかけるのにはあんまり向かない。ただ、それぞれの歌はそれぞれに美しい、と感じる。
しかしこれ、アミ族の歌についてはうたってるのDifang本人じゃないのかひょっとして。

歌の持つ意味

このアルバムに含まれている全27曲のうち、出草(首狩り)についての歌が4曲もある。

ある民族に複雑で精妙な音楽が生まれるのは、それがその民族における共同作業を効率よくおこなうための鍛錬として意味を持つからだ、と云うのが小泉文夫の主張のひとつで、こちらのエントリではエスキモーの音楽を例示している部分を引用したりしたけれど、その角度から云うと首狩りなんて云ううっかりすると返り討ちに逢うかもしれない作業をおこなうためには洗練された音楽は好適、と云う話になるんだろう。

狩猟じゃなくて農耕の話だけれど。
バリは3毛作とかできる豊かな土地だけれど、地形的にはわりと急峻で、なので灌漑用の水を獲得するのはあまり簡単じゃなくて。なので、水を分配する技術と、分配の公平性を確保するための社会的組織が発達している。これが水を重視する宗教の体系や拘束力の強い共同体の成立に寄与した、と云うことになるんだけれど、これが音楽にも影響していたりする。バリガムランの複雑さ・精妙さ・高度な技巧性みたいなのは「共同体としての能力の高さ・緊密さ」のアウトプットでもあるわけで。このへんを共同体間で競うようになってからどんどんエスカレートしていって現状に至る、と云う流れ。

社会と文化、表現

いろんな民族が音楽を含めたいろんな表現を育んできたし、いまも育んでいる。その表現がなぜ生まれたのか、なぜ存在するのか、と云うことについてはそれぞれ理由がある。表現がその第一義的な意味合いにおいてアートとなったのは、個人としての表現者のものとなったのは、それほど昔のことじゃない。

ある表現に対する価値観、美意識を共有することには、そもそも社会的な機能が存在する(と云うかそもそもその機能が、共同体レヴェルでの表現の洗練にさきだつものとしてある)。ぼくたちはその機能と切り離して表現そのものを味わうことができるけれど、それはごく最近になって(いろいろな条件が揃って)可能になったことだ。

ぼくのなかには、美しい(とぼくが感じる)ものにどうしようもなく惹かれる性向がある。なにを美しいと感じるか、と云う部分はそれぞれとしても、この性向については、ぼくたちは、と敷衍してもそれほど問題はないんじゃないか、と思う。この性向そのものはどうしようもなく持ってしまったもので、そのことそのものはいいことでも悪いことでもないんだろう。
ただ、そもそも表現と云うものがそう云う機能を持っていること、ある表現とそれにまつわる言説は(意図する、しないを問わず)そのような機能を惹起する可能性があること、については、意識的であったほうがいいように思う。ある固有の「美しさ」に基盤を置いてなにかを語ろうとする言説が、じつはそれらの機能を利用することを目的としたものである可能性は、つねにある。