Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「特別な言葉」

江本勝氏近辺の言説に触れていてどうしても気になっていた部分があって、それをHitomi-MaZendaさんの言霊の国 ・ 日本 ♪と云うエントリを読んで思い出した。

水を入れたボトルに「ありがとう」という文字を貼っておくと、その
水は美しい結晶になるのに、「ばかやろう」「ムカつく」などの汚い
マイナスの言葉を書いて貼っておくと、結晶が跡形もなく消えて、
見るも無残になります。


これを見た人は、「人間の体の6割は水でできているんだから、プラス
の言葉、美しい言葉を話そう」と誰もが感じると思います。

(フォント指定系のタグを除去して整形しています。以下の引用部分も同様)

まぁこの辺はだいたい江本氏の主張を肯定的に受け止めるかたに一般的に見られる(と云うか判で押したように異口同音に表明する)内容で。「ポエムでファンタジー」と本人が云っている「水の結晶実験」の結果を事実であると受け止めたうえで、「かたちの整ったものは美しいものである」と云う美意識を一般化し、そのまま「美しいものは善きものである」と云う方向に敷衍してなんらかの言説の根拠に用いよう、と云う発想は、それこそ紋切型としておなじみのものではあるのだけれど。

で、よく見られるパターンでは、お水様にありがとうと云うと美人になれるとか癒されるとか現金がざんざか儲かるとかそう云う個人的な現世利益に結びつくのだ、と云う方向に展開するわけだけれども、これが「日本まじすげぇ」みたいな方面に誘導される場合がある。

もちろんわたしもそれを感じましたが、でも実は、わたしにとってそれ
以上の驚きというか、不思議なことがありました。


江本先生の別の写真集に、「ありがとう」という意味の各国の言葉
(日本語・英語・ドイツ語・フランス語・イタリア語・韓国語)を
貼った時の結晶が出ていたのですが…
どう見ても、日本語の「ありがとう」の結晶が最も美しいんですよ♪

江本氏が写真集に掲載する「水の結晶」の写真が江本氏のセレクトにもとづくものである以上(これは本人がそう表明している)、日本語の「ありがとう」の結晶最も美しいと云うことは、つまりHitomi-MaZendaさんのような感受性をお持ちのかたにとって最も美しいと感じられるようなものを日本語の「ありがとう」の結晶として選んでいる、と云うことなのだけれど、その演出の意図は那辺にあるのか。

わたしの仮説ですが…

おそらく、日本語の言霊のエネルギーが、他の言語に比べてものすごく
大きいのではないか。

言霊のエネルギーと云うものがどんなものなのかよくわからないけれど、比喩として捉えれば、現世利益に結びつく力、と云うあたりになるのではないか、と思う。「愛」とか「感謝」とか「ありがとう」に込められた気持ちがめぐりめぐって幸運と利益に結びつく、と云うロジックならどこの言葉で伝えても同じはずで(と云うかどこの言葉で伝えても問題とされるのはそこに込められた気持ち、と云うことになるはずで)、ここであえて日本語の優位を読者が意識するよう誘導する真意はどこにあるのだろう。

地球上のほとんどの民族は、その歴史の中で、他民族の支配を受ける
ことで母国語が奪われたり、母国語の音(おん)が自然に変化したり
して、神代の時代とは違う音を発声していますよね。

でも日本は、その特異な地理的環境や歴史の恩恵で、奇跡的に神代の
時代と同じ音を語り継いできました。

べつに言葉の音韻が変化するのは他民族による支配だけが理由じゃないし、神代の時代と云うのがいつごろのことを指すのかわからないけれど、ここ2千年程度のスケールで考えてもそうとう日本語の音韻は変化していると思うけどな。あと、もともと同じ音の同じ言葉が示していた意味も変化してるよね、みたいなことは以前こちらのおちゃらけエントリで書いたけど。
あと例えば「感謝」って言葉なんか、神代の時代までさかのぼるような把握をすれば、日本語じゃなくて中国語じゃないの? とかも思ったり(と云うか日頃意識してないけど、そう云う意味合いで云えばぼくらの使っている日本語は相当部分がじつは中国語)。

おそらく、ある民族の文化って、国そのもの(土地)がなくなったと
しても滅びない、もし文化が滅びるとしたら、それは母国語を失った
時だと思います(イスラエル建国で国を失ったユダヤ人が、今でも
世界経済を牛耳って いるのがその証拠だと思います)。

ここの部分もなにを伝えたい文章なのかいまひとつ判然としない、と云うか、まじめに読解するとけっこう危ない主張になってしまっているように思えるので避ける。

だから、日本語というエナルギーの高い言霊を受け取った私たち日本人の
責任は、ものすごく大きいと思うし、皆さんに言霊のことをもっともっと
考えてほしいです。

でてきた結論はなんかノーブレス・オブリージュ、って感じなんだけれど。この日本人の責任と云う言葉が、だれに対するどのような責任、と云う意味で使われているのか(そして具体的にはどのような行動を惹起するものとして解釈されうるのか、この種の民族意識が歴史上どんな行動に結びついてきたのか)、と云うのを考えるとなんとなく怖くなってくる。

このへんの角度から江本氏の「波動」言説を読むとどんなものが読み取れるのか、みたいなことについてはちょっとこちらでも触れたけれど。例えば江本氏と近接している船井幸雄氏を軸にして、その人脈につらなるひとたちがどのような主張をしているか、と云うことを考え合わせると、「水からの伝言」系の言説がどのような方向にその受容者を誘導しうるか、どんな利用方法があるのか、と云うことについて、ちょっと危機感めいたものが生じてくるのだった。