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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ホメオパシー有効利用(の壁)

ちょっとまとまりのないだらだらしたエントリになるけど。
前のエントリでJBpressに掲載された長野修氏の何のためのホメオパシーか 西洋医学が見放した人を前に、それでもノーと言えるかと云う記事を取り上げた。このエントリのなかで指摘しなかったのは、言及先の記事の中で「なぜあまたある代替医療のなかでホメオパシーを選ぶのか」と云うのが触れられていない点。

ホメオパシーの基本原理はわりとなまの、ナイーヴと云ってもいい呪術で(呪術的、じゃなくて、呪術)。まずそれは「同種のものは影響しあう」と云う類感呪術が基本にある(このあたりの詳細はtikani_nemuru_Mさんの呪術教団化するホメオパシーにくわしい)。レメディをつくる際に「激しく振る」と云うステップを踏むところからすると、手法としては感染呪術の発想も採用されているように見受けられる。もう原理原則そのまんま。
ここで何度も述べているけれど人間の思考と云うのは呪術的なしくみをたどるように働くもので、要するに呪術面で筋道の通ったものは非常に強い説得力を持つ。感覚的に理解しやすいし、その理路はすんなりと染みとおる(このへんのことはこちらで書いた)。長野氏が記事のなかで書いているわけではないので推測になるけれど(て云うか書けないと思うけど)、ホメオパシーの呪術としての明解な理路は、たぶん長野氏のこころの奥底深く届いたのだろう。

人間の想像力の源泉としての呪術的思考については、ぼくはあらゆる表現の根幹にあるとても大事なものだと思っているのだけれど、そのあたりに対して無防備なのは「医療ジャーナリスト」としてどうかと思う、とまぁこの辺は措いて。
上でリンクしたtikani_nemuru_Mさんのエントリはまた、呪術的思考の医療の進歩に対する寄与について触れられたものでもあって、その意味で呪術的思考によって生み出されたアイディアが医療(のみならず科学全般)の進歩にとって意味を持つことがある、と云う内容でもある。要するに端緒はどうか、と云うことではなくて、むしろそれ以降どのように確かめられ、理解されていくか、と云う部分が重要だ、と云う話にもなると思う。
確かめられ、理解される、と云うのは、言い換えれば疑われ続けること。で、方法的に疑い続けてなおかつ残るものを信用しよう、と云うのが科学でもあって。この部分がわりと厳密にビルトインされていることが科学の手法に対して信を置くべき理由になるわけだけど、疑う、と云うのは科学だけの専売特許じゃもちろんなくて。方法として洗練されていなくてもぼくらは効果をうたうものを疑うし、効果が出なければ信用しない。生き残っていくのは、本来効果のあるもののはず。

鍼灸や漢方を持ち出して、代替医療としてホメオパシーといっしょくたに論じようとする向きがたまにあって。どう違うんだ、おなじだろ、この科学至上主義者め、科学教徒め、みたいに。でも、違うのだ。
鍼灸や漢方、たぶんウィッチクラフトなんかも、実用に供されてきた長い歴史を持っていて。ぜんぜん効かない施療をするあんまさんや漢方医、呪術師やカニングパーソンなんかは要するにやぶなので流行らなくてやっていけない、みたいなのはまずあたりまえにあったわけで。だったら効く方法を探さなきゃいけない、方法を洗練しなければいけない、みたいな要請はその歴史上ずっとあって、間違った手法は随時捨てられてきた。もちろん伝統療法にも筋がいいのと悪いのとがあるだろうし、その効果に対する社会のなかでの評価には文化的なバイアスがかかるわけなので、長い歴史があるからといってかならず意義が大きい、と云うことにはならないんだけど、いずれにせよそう云う状況にずっとさらされて来ているわけで。

ひっくり返すとホメオパシーにしても科学的な観点からうんぬんするなんて必要はなくて、運用していくうえで効果がないような手法は捨てられていくだろうし根本的にだめだったら忘れられていくだろう、みたいなことは云えるんだろうけど、そう云うかたちで効果を検証するためには膨大な時間と人柱が必要になるわけで、そんなコストはいまのぼくたちの社会は払えない。いやホメオパシーを信じたけれど効果がなかったひとがいて、あぁこれでホメオパシーの進化に寄与できたなぁとか思って苦しみつつも満足するぶんにははたからどうこう云う権利はないのかもしれないけど、そう云うひとがまわりにホメオパシーを勧めて、自分の知人とか子供とかわんことかにゃんことかを人柱に差し出すのがいいことだとはぼくにはとうてい云えない。
ちなみに各種の伝統医療についても当然ながらそんな悠長なことが云える状況にはないわけで、なので科学的な方法によって効率的にその体系を疑い、効果のある部分をより高い精度で確定し手法として洗練していこう、と云う方向もあるわけで(kikulogの漢方薬と云うエントリおよびコメント欄の議論が参考になる)。

そう云うわけでじっさいに使えるものかどうかを疑うための方法として科学的手法に意義がある、みたいな話になるわけだけれど、逆に云うと科学的方法と云うのは原理的に人間の感覚になじまないし、日常なにかを判断するときに科学的な視点をつねに準備する、と云うのも現実的には困難で(人間の思考方法はそもそもそう云うふうにできていないので)。そこで科学リテラシーですよ、と云う話にもなるんだろうけど、特定の事柄について社会全体として科学的な評価をつねに共有して認識する、と云うのは難しい。先にも書いたけれどある事柄についての評価には文化的なバイアスがかかるし、感覚的な実感をベースにすると評価基準がぶれる余地がいくらでもある。プラシーボだって生じるし、「信じ」てしまっていれば好転反応のロジックだって受け入れてしまう(結果的に娘が死んでも)。
云ってしまえば医療と云うのは症状が改善したり体調がよくなったりすれば理屈はなんでもいいわけで、だったら高い確率でプラシーボなりなんなりによる症状の改善が見込める方法なら作用機序なんかどうでもいい、と云うのもまぁ目的だけに注目すると間違ってはいない。kikulogのホメオパシー関連のエントリでは、ときおりそう云うスタンスの論者が現れたりする。

でも、難しいよ。一定以上の現実的な効果を要求されることがらを、いまの世の中で呪術だけに原理を求める手法で運用しようとするのは。いんちきがばれたり疑われたりしたらアウトだし。そうならないようにはクライアントの入手できる情報をなんらかの手段で制限するとか、そう云う工夫が必要になってくるけど、いまの世の中そう云うことがそう簡単にできるわけじゃない。

ちなみにこれはそのへんについての重要な思考実験のひとつ。

キリンヤガ (ハヤカワ文庫SF)

キリンヤガ (ハヤカワ文庫SF)

  • 作者: マイク レズニック
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1999/05
  • メディア: 文庫
 

まず信じなきゃ効かないよ、信じない性根の曲がった人間はひどいめにあうよ、みたいな脅し文句はそのあたりそう云う面でそこそこ効果的なのかもしれない(ホメオパシーがいっぱんにそう云うスタンスにあるのかどうかは知らないけど)。
たぶん呪術を有効に運用しようとするには、なんと云うか運用する側が基本的にその原理を「信じない」必要があるんじゃないかと思う。信じない、と云うと語弊があるけど、原理を疑ってそれでもそれ以上疑い得ない部分だけを基盤にして、さて運用を考える、みたいな。わりと悪意に満ちたスタンス。最後に残るのがどうしても排除できないひとのこころの不合理な部分、と云うことになると既存の穏健な伝統的宗教と同じしくみになるわけで、これはこれで有用たりうる。
で、ホメオパシーがその根本にある呪術を手放さないのなら、まぁ目指しうる高みはそっち方面、と云うことになるんだろう。それでいいんだったらそれでいいのかも(科学だとか医療だとか詐称しなければ)。ただ、それらの宗教が歴史上やっぱり生み出してきたような犠牲や人柱をこれからあらためて出すのは、やっぱり許容されない、と思うけれど。

とりあえず、現時点でホメオパシーは医療を標榜するべきではないし、実践されるべきではない、と思う。いろんな共同体で生き残っている民間療法には、医療として有効活用可能な要素を包含している可能性がある。現状では、ホメオパシーにはおそらくそれはない——呪術としての純度が高すぎ、そしてそこから踏み出すための方法論を持たないから。