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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

日常のなかのニセ科学問題に横たわるグレーゾーンに対峙するための6つのスタンス

タイトルは「やってみたかった」だけです。
ハブハンさんのグレーゾーンのコトをもう少し考えてみたと云うエントリを読んでちょっと感じたこと。どうやらぼくとハブハンさんのあいだでグレーゾーンと云うものに対する理解のしかたが違うようなので、エントリ内でハブハンさんがめぐらせている考察とストレートに噛み合う内容ではないけれど(だから、たぶんここでぼくが書いたことがハブハンさんのお書きになったことと食い違うように見えても、それは実際には主張のぶつかり合いではないんだと思う)。

グレーゾーンの存在そのものをどう捉えるか、と云うことについてはだいぶ長い議論の経緯が存在していて、例えばkikulogの念のため、科学とニセ科学とグレーゾーンについてと云うエントリで集約された議論があったりもする。

グレーゾーン、と云うものをどう理解し、把握するか、と云うのは重要な問題で。それは、グレーゾーンの範疇にある事柄でも、判断を下さないといけない、と云うケースが存在するから。ことの重要さの度合いを措くと、それは日常的に存在する、と云ってもいい。

あるモノに対してそれがトマトか、トマトでないかを判断できるような基準を持っていることを「定義づけができている」、そして実際にあるモノに対して「それはトマトだ/トマトじゃない」という判断を下すことを「弁別する」と言っているだけのことで、私達は意識的にしろ無意識的にしろ、生活のなかで当たり前に定義づけ&弁別を駆使しています。

グレーゾーンをどう扱うか、と云うのは、この「弁別する」ことのニーズにかかわってくる。そして、いやおうなく「弁別する」必要がある局面が、ひとが生きていくうえで訪れる。

グレーゾーンの問題、と云うのは科学・ニセ科学の問題の領域にだけあるわけではもちろんないのだけど、問題をニセ科学にまつわる部分に限れば、それは「科学であるか、科学であるとは云えないか」と云う部分に横たわっている。ニセ科学は「科学でないのに科学をよそおうもの」なので、グレーゾーンにおいては「実際以上に『白であること』を主張するもの」と云うことになる。理屈の上では科学においても(科学に限らず)すべての事柄はグレーゾーンのなかでいずれかの場所を占めている、とも云えるので、ここではその程度を考えて判断する、と云うことになる。
これまで触れたいろんなかたの議論を踏まえると、日常のなかでニセ科学を判別し対処するために必要になる科学的なグレーゾーンに対しての理解は、だいたいこんな感じになるのかな、と思う。

  1. すべてのものにグレーゾーンは存在しうる。どんなものでも、真っ白だったり真っ黒だったりすることはあまりない。
  2. グレーゾーンは真っ白と真っ黒のあいだに横たわっているけれど、同じトーンのグレー1色で塗りつぶされた領域、ではない。真っ白と真っ黒を両端にして、それは白に近い階調から黒に近い階調までのグラデーションになっている。
    • なので、「グレーゾーンにあるならみんなおなじ」みたいな、つよく相対主義的な主張は成立しない。そう云う主張はなんらかの「そう云うことにしたい」動機を背景に持っている、と考えてもいい。
  3. すべての事柄はグレーゾーンのなかで特定の場所を占めている。ふたつの事柄を比較するにあたって、より白に近いものではなく、より黒に近いものを選択する合理的な理由は存在しない。
    • もちろん、黒に近いものを選択する自由はある。他者に危害を加える結果にならない限り、あきらかな黒を選択する自由もある。
    • ただしその選択は不合理なものであるから、その自由は自分自身の一身を超えて敷衍することはできない。(参考:tikani_nemuru_Mさんの愚行権とセットになるもの
  4. ある事柄がグラデーションのどこに位置するか、については、関連する要素を顧慮し、考えたうえで判断する必要がある。
    • より黒に近いもの、より白に近いものほど、判断は容易。
    • そうでなければ判断は困難、または不可能。この場合、状況が許すなら、判断を可能にする材料が登場するまで、判断を保留するのが適切。もちろんこの保留にも、白に近い、または黒に近い、と云う水準で保留しておくことも可能。
    • なお、判断材料の変化によって、グラデーションのなかでその事柄が占める位置は変わりうる。と云うか、変わりうるものであるからグレーゾーンに置かれているわけで、このことによって「どの位置にあっても同じ」と云うことにはならない。
  5. その事柄を「信じられる」かどうか、「感性にフィットする」かどうかで、グラデーションのなかでその事柄が占める位置が変化することはない。
    • そう云う個人的なファクターを排除できるところに科学の意義があるので、原理的に云って無理。
    • 保留せざるを得ない事柄を保留せずにすむようになる、と云うこともない。

だいたいこんな感じで理解しておけば、受け手としてはそんなに迷わないのかな、とか思う。ただこの「保留する」と云うのが割合と難しい(これは少し前のエントリで書いたこととつながってくる)。
それよりもなによりも、保留できるだけの余裕がない状況もある。たぶんそう云う状況では、「合理性」の意味が変わってくる場合もあるんだろうな、みたいには思う。

ひるがえってニセ科学の「送り手」(提唱者ではなく、末端の小売業者とか)の側を考えると、だいたいうえに挙げたリストの2番目の部分をあいまいにしている場合が多い。このへんサンプルがあったよなぁ、とか思ってちょっと探してみた。kikulogの波動・美容・マイナスイオンと云うエントリのコメント欄に、ニセ科学な化粧品の売り手と買い手のサンプルケースが多数登場している。このコメント欄は長大ななかにけっこう起伏があって面白いのだけれど、コメント番号567番のあたりから「信じてないけど商売でやってる」ひとが登場していて、参考になる(809番あたりから本音が出てきて、そこからはなんかぼくもけっこうやっきになってコメントを返していたり)。

じっさいのところこう云う、科学とは関係ない部分での売り手側の問題が解決されないと、いかに世間の科学リテラシーが平均的に向上しようとニセ科学はなくならない(ちなみにここで云う「売り手」はかならずしも商品を実際に販売する立場のひとだけじゃなくて、マスメディアなんかの「情報の売り手」も含む)。自然科学者を含むニセ科学の問題を論じる人間が「なくせるとは思っていない」みたいに発言するのは、そう云う意味だったり。

ただ、買い手のいない商売は継続させることはできないわけで。結局のところぼくなんかが、いわばニセ科学の買い手の問題にフォーカスするのは、そんなあたりに理由があったりするのだった。