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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

音楽のゆくえ

もうほとんどまとまりのないエントリなので「音楽あれこれ」ではなく「余談」カテゴリで。
昨日の晩にテレビで坂本龍一の出てくる「爆笑問題のニッポンの教養」を見て、今日ファイル・ウェブの坂本龍一氏に訊く、これからの音楽のかたちと価値とはと云う記事を読んだ。

いやなんかべつだんそんなにファンでもないし、そんなにまじめに聞き続けているわけでもない坂本龍一をひんぱんに取り上げるのも妙なんだけれど、いま現役の群を抜いた音楽家で、アクティビスト的側面をつよく持っていて、しかも露出が多い、と云うわけで、どうやらぼくの側にこのひとをいろんなものの代表として認識するような角度があるらしい。

昨日のテレビ番組を見ていて、へんな云い方だけれど、坂本龍一はほんとうに「音楽」のひとなんだな、と思った。
爆笑問題の太田が好きな音楽として持ち込んできたサザンオールスターズを坂本は「わからない」と一蹴してしまう。「言葉が入ってこない」と口にする。この部分は番組内でそれ以上掘り下げられることはなくて、なんとなく坂本龍一の音楽的バックグラウンドから生じる好み、みたいな雰囲気で消化されてしまったのだけれど、この部分わりあい本質的なのかな、みたいに感じた。

音楽は還元していくと音そのもので。音が連なってリズムとメロディができて、音が重なってハーモニーとアンサンブルができて、さらにそこに歌詞として言葉がのっかって歌になったり。音楽の快楽、と云うのはそれぞれのレイヤーに宿っていて、もう単純にひとつの音の音色が気持ちいい、と云うあたりから、各要素の協調で全体として生まれるものが素敵、と云うあたりまでいろいろある。

ひじょうに個人的な感覚で云うと、サザンオールスターズの音楽は桑田佳祐の生み出すどこかノスタルジックなメロディと歌詞(と云うか言葉の選択)を中心に、これらを生かす音を配置することでパッケージングされている。パッケージ全体としてのつくりは国内マーケット向けのビジネスに特化したもので、もちろんそれが「音楽」であるゆえの力は遺憾なく発揮されているとは思うのだけれど、例えばそこには音楽として国境を超える訴求力はない(中国とか、そう云う物理的・文化的距離の近い外国には進出しているようではあるけど)。ないからいいとか悪いとか純粋だとか不純だとか云う単純な話ではないけれど、坂本龍一が「世界のサカモト」たりうるのは、もっと深い、と云うかエレメンタルなレイヤーにアプローチすることで音楽と云う表現をおこなっているからなんだろう、みたいに感じる。もちろんそれはその行動のすべての側面において彼がそう云う深みを持っている、と云うことじゃなくて、そのあたりはこちらのエントリに書いたようにぼくは感じているのだけれど。

こちらのエントリの最後の部分でぼくは口ごもり、そしてYouTubeにあがっていた坂本龍一と元ちとせによる「死んだ女の子」のライヴ映像を貼って口をつぐんだ。
この曲は作詞も作曲も彼らではない。曲そのものの持つインパクトを除外すると、そこにあるのは音楽をその場での表現として現出させるうえでの坂本龍一の、元ちとせの能力。「伝える」ことについてのエントリだったので論じなかったけれど、ぼくはこの演奏における彼らの表現力、音楽を通じてひとになにかを伝える圧倒的な力に、正直まがまがしさに似たものまで感じていた。

伝えられているものはなにか、と云う議論は措くとして。表現の自由を支持すること、芸術を称揚することは、そのまがまがしさを受け入れること、その力のネガティヴな側面から目をそらさないこと、でもあるんだろう。
番組のなかでは坂本龍一Macに取り込んだ音楽をiTunesで鳴らしていて、このひとの耳がAACの音質を許容できるとは思えないんだけどなぁ、みたいに思っていたけれど、ファイル・ウェブの記事を読んで得心した部分が若干。

僕自身も住み分けをしているんですよ。とりあえず気になるものは配信で聴いて、いいなと思ったものはCDで買う。そしてすごく愛着のあるものは、レコードで買いたいなと思う。それは、レコードは手でさわれる『モノ』としての愛着とか、ジャケットに描かれたアートワークの価値が大きいから。オーディオ的にも、アナログですから論理的にはリミットレスの情報を記録できるわけでしょう。メディアとしての可能性という点でも面白いですよね。CDは、モノとしての魅力はレコードより少ないけれど、コンパクトだから置いておきやすいとか、CD時代になってからの音源しかないとかの理由で少しは残っていくのかなと

まぁ、そう云うことだよなぁ。爆笑問題なんか持ってきたCDをラジカセで鳴らしてたし。

聞いた話なんですが、今の若い子は携帯電話で音楽を聴くけれど、機種を変更するときに、それまでダウンロードした音楽を一緒に捨ててしまうそうですね。機種間でデータを移行できないということもあるのでしょうが、捨ててしまってそれを顧みないのが習慣になってしまっているのかも知れません。作る側もそういう風潮に合わせるから、どんどん安っぽい音楽が増えていく傾向もありますしね。

ここで最初のサザンオールスターズの話につなげると各方面から叱られそうだけど、音楽産業の現状、と云う話をすると、背景としては共通するものがあるのではないか(そして坂本龍一がこれらに否定的なのもそのあたりにあるのではないか)みたいに感じる。

音楽と云うものがそもそもどれくらい昔からあるものなのかわからないけれどこっちのエントリで触れた記事なんかから考えると最低3万5千年くらい前にはあるわけで、録音されて放送されたりパッケージとして流通したりする形態が主流になっているのはエジソンから数えてもここんとこ150年程度の、ごく最近の事情ではあるわけで(そう云う話をすると、音楽と云うものが「音楽家が自己を表現するもの」になってからもせいぜい500年やそこいらしか経ってないのだけど)。ある意味「急速な変化」なので、今後も同じくらい急速に変化が起こっても不思議ではない(変化を加速するテクノロジーもあるわけで)。

そうすると、そもそもの本質はなにか。

けれど、もともと音楽って何万年もの間、かたちのない『ライブ』だったんです。メディアを再生して音楽を聴くというスタイルは、レコード誕生以後の約 100年くらいの歴史しかないんですね。メディアがなく録音もできない時代、音楽は100%ライブだった。音楽が目に見えない、触れられないデータ化されたものになっている今、もう一度音楽のおおもとのかたち −ライブへの欲求が強くなっている。これはすごく面白いことだなと思っています。なにか必然的な理由があるような気がしてね。

じっさいに全般的な傾向として音楽を聴くひとたちのあいだでライブへの欲求が強くなっていると云うことがあるのかはわからないけれど、でもほんとうにそうだとすれば、それは素敵なことなんじゃないか、と云うように感じる(個人的な話で恐縮だけど、ここ数年ぼくにとっては音楽は「鳴らす」ものと云うより「演奏を聴きにいく」もの、と云う意味合いが濃くなっている。まぁこれは仙台と云う、年に一回街のいたるところに生演奏の音楽が野放図にぶちまけられる土地に戻ってきたことも関係している気がする。そういやもう再来週末か)。

# 余談の余談。
# 番組中で坂本龍一爆笑問題4分33秒を聴かせていた。
# で、ぼくはこの曲がどんな水の結晶をつくるのか、以前から江本勝氏に訊いてみたくてしかたないのだった。