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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

疑う、信じる

前のエントリのコメント欄で、katsuyaさんのあげられた懐疑主義は疑似科学の防波堤になるか?と云うエントリをTAKESANさんに教えていただいた。
で、前のエントリからの流れでちょっと考えたこと。

懐疑精神が疑似科学の防波堤になるという考えには懐疑的に接した方が良いだろう。

これ、まぁ懐疑精神と云う言葉の意味をどう捉えるか、と云うあたりからはじまる話にもなるんだろうけど、まぁ単純に「疑う心」だとして。
いずれたぶん、なにかを考えるにあたっては、その起点に「信じること」があるんだろうな、と思う。疑うと云うのは、あることを「信じる」ことに向けられる営為ではあるし。

だからまず、自分がなにを「信じ」ているのか、を把握するのが、懐疑精神を健全なものに保つための最初のステップかな、とか考える。
ニセ科学に対する批判をおこなうにあたって、その批判のロジックそのものに対しても懐疑的な目を向けていく(べつにあらためて強調することもないけれど、ニセ科学の問題に継続的にコミットしている論者なら、これは日常的にやっている)。そうすると、lets_skepticさんのニセ科学批判者曰く「うわ、そんなことありえないよ」と云うエントリにあるように、その起点として「信じ」ているものは実在論である、と云う部分に行き着く。

まぁぼくなんかも含め、一般のひとたちは実在論を盲信している、と云ってもいいのかもしれない。
逆にニセ科学への支持を表明するのなら、ロジックにおいて素朴実在論にメスを入れる必要があるだろう、みたいにも思う。そう云う立論をしているニセ科学支持の言説を見たことはまだないんだけれどね。