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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

わかろうとすること

ときおり読ませていただいている(ほんとうは精読したいのだけれど内容が濃いのでさぼりがち)棚橋弘季さんのブログで、わからないことへの耐性と云うエントリがあがっていた。お書きの趣旨とちょっと違うと思われる角度で言及するので、トラックバックなし。

世の中の過剰な「わかりやすさ」志向、みたいなものについての問題意識を個人的にずっと抱いていて(このへんとかこのへんで書いた。もう3年も前だな)、実際のところニセ科学の問題についてあれこれ考え出した根底にはそう云うものがあったりする。

何かがわからないことの原因の半分はそれをわかる側の責任でもあります。ところが、どうもそれを表現する側、作り手側、話をする側の一方的な責任にしてしまう傾向がみられます。

一定以上に複雑なことを理解しようとすれば、それを理解できるだけの知識なり思考力なりが必要になる。より効率よく理解するためのメソッド、と云うのはあるのだろうけれど、なんの努力もなしに理解できる範囲はあたりまえながらそれほど広くない。共感できるとか、感性にフィットするとか云うあたりで納得できるのは、ひっくり返せばその程度のぼんやりした理解で充分だ、と思っていると云うことで、もちろん日常はそれで事足りる局面も多いのだけれど、まぁ実際には必要なだけの理解に達しているわけではない場合も多い。
問題なのは、そのぼんやりした理解でほんとうに充分なのか、と云うあたり。

そもそも、簡単にわかろうとしすぎるのです。
わかろうとする努力ができない傾向が強すぎるのです。

絶対にわかりきってしまうことがないものを、それでもひたすらわかろうとする努力をしつづけることができない人が多いのです。
自然を相手にすれば実はわかりきってしまうなんて状態はありえない。答えなどは永遠に見つからない。ただ、その時々の解釈が成り立つ場合があるだけです。科学的な法則さえも単に現代人が妥当だと感じられる解釈でしかなく、絶対的な答えなどではない。単なるお約束のうえに成り立つ妥当な説明でしかないことを忘れすぎです。

答えなどはなく、結局、ひたすらわかろうとしつづけ、その時々でこれだと思えるような解釈をつくりつづけていくしかないということを忘れてしまっている人が多いのではないでしょうか。

まぁ科学的な法則について示されている見解に関しては、それがひとの認識の外部にある方法論であるゆえの意義と云う部分について考えるとちょっと異論はあるけれどそれは措くとして。

わかろうとすること、わかることの意義をそもそも認めない、と云うスタンスもありえて、そうなるとわかるかわりに「信じる」ことに意義を見出す、と云うパターンがあって。これが多くの場合ニセ科学の蔓延の背景にある。
ところが、要するにここにおける「信じる」と云うのは事実上「わかる」ことを放棄する代用とされるので、じっさいには自分がなにを「信じ」ているのか「わか」っていない、と云う状況が生じる。冗談のようだけれど、ニセ科学を支持する種類の言説は基本的にはそう云うものだ。「信じることが大事、とおっしゃるけど、なにを信じているんですか?」と問いかけて、自分の信じているものがなんなのかちゃんと説明できる方には(わずかながら積み重ねてきた経験のなかでは)ほとんどお会いしたことがない。

で、だいたいそう云うときに登場するロジックは「だって科学にだってすべてのことがわかっているわけじゃないじゃない。だったらおんなじでしょ」と云うもの。このへんのことを絢爛たる学術(っぽい)用語をちりばめてミスティフィカシオンをほどこしながら主張される方も多いけれど、要するに「わかる」と云うことを「すべてわかる」か「まったくわからない」かの二元論で解釈して、「わかっていることがあってもわからないことがあるならそれはまったくわからないのと等価だ」と云うことを主張する。
まぁそれはそれでいい場合もあるのだけれど、こっちでも書いたようにそれではすまない状況もあるわけで。

このへんについてはkikulogの少し前のエントリ、絶対安全信仰vs.リスク評価(追記あり)で論じられているような部分とも重なる部分があって。
要するに最良の結論に達しよう、最良の手を打とうとすれば、その時点でできる限りのことを「わかる」必要があるし、「わかる」ことができたことが多ければ多いほど出した結論が最良のものである可能性が高い。これは「信じる」ことの持たない機能だ。いやもちろんすべてを「わかる」ことなんて不可能だから、わかっているひとの力を借りるなりしながら、いっしょうけんめい自分で手の届く範囲でわかろうとすることが必要になる。
あるひとにとっていちばんわかりやすい(感覚的に納得しやすい)結論がつねに最良の結論である、なんてことはありえないし、それはどれだけ「信じ」ていても変わらないので。