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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

論拠を選ぶ

志木教会のブログの和解といやし 2と云うエントリを読んだ。
でまぁ、余計なお世話ながらもなんか心配になってしまったんだけど。

 モーツアルトを流した水の結晶は美しい王冠をもった結晶なのです。
バッハとか賛美歌も均等がとれた美しい結晶なのです。
ジャズだと形が崩れます。ひどい不協和音だと水の結晶に歪みが生じてくるのです。
おしゃべり、憎しみ、恨みのこもった声を出し続けていくと、もう結晶は形を崩してしまいます。
腐敗した食べ物のように形がないのです。

それはまぁ、ジャズには複雑な不協和音が混じることは多いだろうけど、バッハだってディミニッシュぐらいは使ってるんじゃないかなぁ。と云うか、この文章は バッハとか賛美歌と比較してジャズはおしゃべり、憎しみ、恨みのこもった声に等しい、としか読めないんだけれど、この牧師さんは本気でそんなことをお思いなのかな。そして、教区のひとたちにそれを伝えたいとお思いなんだろうか。ジャズメンにも経験なキリスト教信者は珍しくないと思うのだけれど。

と云うか、まず。

波動というのがあるそうですね。波の動きという言葉です。音楽や人の声を水に聞かせるのです。
音や声の周波数が水に伝わり、水がどのように変化するか、それを実験したのです。

その実験をおこなった人物は、こちらで書いたようにそのロジックをかつてドイツに存在したある種の思想に非常に似通った発想にもとづいて展開しているのだけれど、この牧師さんの教会はそれを容認し支持する、と公の場で表明している、と捉えていいのだろうか。

ぼくはキリスト教を信仰してはいないけれど、それは長い時間を積み重ねてきた措くあたわざる思想の体系だと思うし、いまも多くのひとをその精神面において支える重要な役割を担っていると思う。その思想に基づき、信仰する衆生を導く立場にあるひとが、その思うところを伝えるのに波動なんて云うニセ科学に頼らないと伝えるべきことを言葉にできないのだとすれば、それはとても悲しいことだと感じる。