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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

神話、ではなく (「はじまりの歌をさがす旅」川端 裕人)

この作者で、このタイトルなので、文庫に落ち次第迷わず読む。

はじまりの歌をさがす旅 (角川文庫)

はじまりの歌をさがす旅 (角川文庫)

書評、とは云っても、ぼくにはぬきんでた読解力も広範な読書経験もないわけで。どちらにせよブログのエントリとして書く以上、書くことはいつも自分につよくひきつけた内容になる。結局のところその時点で読んだぼくのなかに生じた呼応するものについて書くわけで、例えば再読したらまた受ける心証は違うだろうし、書くことも違うだろう、と思う。その意味で、対象となる書物とここでぼくが書く書評的なエントリとは、ある程度独立している、とも云えるのだろうけど。
で、ここのところぼく自身が考えてきた、少しずつ語ったりしてきたことと、やっぱり呼応する部分がつよく印象に残る(ちなみにこう云うのがシンクロニシティ、と云うことの正体だと思うんだけど、そのあたりの話は措く)。
 
共同体と音楽。共同体の成員に対する文化の、芸術の持つ(闘うための武器ともなり、同時にその構成員をつよく抑圧するものともなりうる)力。共同体の内側へも、外側へも向けられうるその力を行使することの意味。
 
カルチュア・クラッシュの現場を書くときに、例えば古川日出男はその文化に、共同体に包含されるインサイダーの視点からその変容を描く。あるカルチュア(ときにはそれは個人に収束するものであったりもするけれど)の変容を、そのまま世界の変容として。それは個人の内的な世界に留まることも、共同体全体に及ぶ変化として描かれることもあるけれど、結果的にたちあらわれるのはどこか神話的な情景だ。
それに対して、川端裕人の書く主人公たちは、その現場に立ち会い、プレイヤーとしてふるまうに際して、どこかそのカルチュアにおけるアウトサイダーとしての視点を与えられている。そのことで、作品世界のなかで生じる変容は最終的にどこかで現実世界との紐帯を保ち続ける。
 
この小説のなかでも、そもそもの起点となる洋も、主人公である隼人も、共同体の外部から訪れるアウトサイダーだ(隼人は血脈と云う意味で共同体とつながれているが、文化的な意味では完全に切り離された状態から物語に飛び込んでいく)。 結果、川端裕人の紡ぐ物語には読み手であるぼくたちに対して、どこまでも具象性を残す。そこで語られる物語はどこか別の(あるいは内的な)神話世界ではなく、主人公たちとぼくらが共有するこの(ひとつの)世界である、と云う示唆がつねに保たれ続ける。 共同体の変容。さまざまなスケールでのカルチュア・クラッシュ(それに伴う反発と受容、容認と排除)。表現の、芸術の力。オーストラリアを舞台に、アボリジニの現況を背景にしているとは云え、これはいまの、ぼくたちの現実に存在するものがたりだ。 悪人もでてこなければ、善人もでてこない。登場する個々人は、それぞれのストーリイを生きている。その重層性はニコチアナのときと変わらないけれど、本書の物語は一貫して隼人の「旅」を追うものであるために、よりシンプルなラインを辿る。物語を駆動するエンジンが明解なぶんだけそれは読み手側のシンプルな姿勢を許容するけれど、いちめんそれはそこにある示唆すべてを読み取ることに失敗するリスクを高める可能性もある。
先にも書いたけれど、ぼくはどうしても最近のぼく自身の関心事に直接つながる要素が前景化して見えてしまう状況でこの本を読んだ。再読すれば、また読み取れることが変わってくるのかもしれない。