Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

語られる意味

仙台は今日から七夕まつりで、今朝は(去年も書いたみたいに)地元のちいさな商店街の愛らしい飾りつけを眺めながらの出勤となったのだけど、そのあいだに流しっぱなしのカーラジオから、ウェブサイト被爆者の声を運営する古川義久さんのインタビューが流れてきた。

短いインタビューのなかで古川さんが云っていたのは、64年間にわたって原子爆弾が戦争で使用されていないこと、その理由のひとつが広島・長崎の惨禍が語り継がれてきたことにあると考えていること(いつもの聞き流しモードからの切り替えがあまりスムーズにいかなかったので、不正確だけど)。

広島で小学生だった時期を持っているので、リトルボーイについては語られる言葉を直接聴く機会があった(先生方にも被爆者はいた)。それに較べて(血脈のひとすじを肥前に持つにもかかわらず)ファットマンについて語られる言葉を耳にする機会ははるかに少なかった。
語ること、それを受け取ることは、難しいことだった。その機会を得ることが。

もちろん、なにかを伝えることにまつわる困難さについての本質は変わらないけれど。でもそれは、そもそもまず機会・手段においてかつてははるかに困難なことだったのだ。

あからさまな地獄の現出、であるため、原子爆弾にまつわることがらは、それに接するものにつよく刺さる。広島の平和記念資料館にはじめて入って、平然と出てくることができるひとはあまりいないだろう(ぼく自身、そこに現物として展示されているものものが伝えることを受け止めるにあたって、そこになんらかの心理的規制が自分の中で働いている感覚があった)。原子爆弾の生ぜしめることを戦争の惨禍のなかで特別視するべきだとは思わないけれど、それでも原子爆弾について語られる言葉はつよい。ただ、それをどこまで届けることができたのか。もちろん、意思をもって語り継ごうとするひとびとの、それは問題ではなく。

ここ数千年のあいだで、きっといまは全人口に対して戦争を忌避するひとの割合がいちばん多い時代なんだろう、とは思う。そして、ぼくのように実際に戦争に接したことのない人間にも、戦争について考えるために、語られること、に触れる方法と機会がかつてなく数多く存在する時代でもあるんだろう、と思う。被爆者の語る、その音声そのものを届けることさえ、可能になっているのだ。

なにを、どのように伝えるか。それはもちろん、ひきつづき重要な問題ではあるけれど。
本来ならここで、「表現」と云うものについて、と云うことに話を継ぐべきなのかもしれない。でも、今日は控えます。