Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

選びえぬとき

どらねこさんの一連のマクロビオティック関連のエントリがいったん結びとなったようで、マクロビ関連エントリまとめと云うエントリでまとめられている。最終的にQ&Aと云うかたちで集約された講習会でこんな話し聞いてきたのだけど(前編)(後編)の2つのエントリは労作だと思う。少し前に言及したOSATOさんによる「水からの伝言」の読み解きしかり、こう云うていねいなテクストをアクセス可能にしてもらえるのはほんとうにありがたい。

うちから街の中心部までのあいだに、ヴェジタリアンフードやマクロビオティックを標榜する食べ物屋さんがふたつほどある。どちらも入店したことはないのだけれど、そう云うお店があること自体はいいことなんだろうな、と思っている(片方はおいしそうなので、いちど食事をしてみたいと思ったりもする。もう片方はストリクトなマクロビオティックを実践しているようなので、休日の食事にはどうかなぁ、とか思ったりするけど)。そういうものが食べたいときに、ぼくたちはそう云うものを選ぶことができる、と云うことなので(蕎麦屋のざるや、おにぎり屋の唐揚げ定食や、中華料理屋の坦坦麺のかわりに)。
で、ぼくがこう云うことを云えるのは、「選ぶことができる」から。食べたいものが食べられるし、食べたくないものは食べなくてもいいから。美食に走るのも、健康に配慮するのも自由だから(いや、財布の中身とかつれあいの選ぶ献立とかもあるので、いっさい自由と云うわけではないですが)。

2年ほど前に書いたエントリで、ぼくはマクロビオティックを実践する家庭で育った方のエントリに触れた。ひさしぶりに、この自分のエントリからりほさんのブログをのぞいてみる。
最近は更新のペースもすこしゆっくりにされているようだけど、ここには「選べない」状況でマクロビオティックの実践者となったこどもがどんなふうに育ったか、の一例が示されている(このようなテキストを書くことができるりほさんの克己心と、視点のバランスを維持しようとする努力には改めて敬服する)。

りほさんは、選ぶことができなかった。将来の葛藤を避けるすべを、こどものころのりほさんは持っていなかった。
そして、そのことをりほさんに強いたひとたちには、悪意などかけらもなかった。そこにあったのはりほさんへの思いやりと、善意。
このことを、どう捉えるか。

りほさんが選ぶことができなかったのは、こどもだったから。
でも、選ぶことのできない状況は、いくつも考えることができる。想像することができる。

実際には、ぼくの貧弱な想像力は届いていないのかもしれないけれど。それでも、知っている。
いくら感謝をささげようと、飲用になる水が手に入らない状況にあるひとがいることを。
「自然な出産」では健康に生まれてこないこどもがいることを。
予防接種を拒んだひとから、感染症をうつされるひとがいることを。

ニセ科学を信じるのは自由だし、そこに余人がなにか云うべきではない」と云うような言説にときおり触れる。いまも。
その言説を、もっともだと感じる部分はある。でも、それに同意できない理由も、またあったりするのだ。