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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

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OSATOさんによる「水からの伝言」の丁寧な再読み解き、「『水』を読む」シリーズが「水」を読む(9)最終回〜これから〜で完結した(一連のシリーズエントリは「水読」カテゴリに現在のところまとめられている)。

ニセ科学に関しては、ぼくはとりわけその「蔓延」の部分、受容される側の問題について視点を置いてきた。これは、まずはぼくがアカデミシャンではない、と云う立ち位置から選択しえた視点でもあって、ぼく固有の問題意識のありかからとってきたスタンスでもある。なので、読み解き、と云う部分についてはスタンスを異にするかたがたによる果実を利用させていただく、と云う方法をとってきた。
今般のOSATOさんの一連のエントリは、(おそらくは)ぼくに近いスタンスから、実際の読み解き、と云う方法をとっている。まずはそこに、敬意を表させていただくとして。

あの結晶写真は、オウムの「空中浮揚」の写真と同じなのだと私は思います。

それを見た人は、その美しさのインパクトにより、それに付される説明をそのまま信じ込まされてしまいます。そして、彼の述べる「実例」に我が身を投影し、そこにたまたま当てはまる部分のみで彼の言葉を信じてしまうようになってしまいます。 そしてやがて、見る物聞く物すべてに対し、彼の言った言葉通りという関連付けをしていくようになります。
つまり、一方向からの思考しか出来なくなっていくのです。

美しさと云うものはそれを感じるひとのなかにあるものでもあるし、同時にひととひとのあいだで共有されるものでもある。だから、個人的なものでもあるし、同時にポリティカルなものでもあって。
ニセ科学に直接言及するエントリでも、そうでないエントリでも、このあたりについてはつたないながらも考えてきた(端的にはこのエントリとか。今回、まとめて「表現」と云うタグをつけてみた)。いずれにせよ、たぶんそれはひとの思考をある方向に向けさせるための武器として、かなり強力なものになりうるのだ、と思う。

こう、非常に雑駁な云いかたしかできないのだけれど、ある大掴みな文化の文脈に属する層に対しては、その文脈で共有されているとおぼしき質の美しさを提示することによって、思考の向かう方向をある程度コントロールする、と云う手法が利用可能なのだと思う。
不勉強なので、この種の手法を使用した大規模な例としてすぐに思いつくのは国家社会主義ドイツ労働者党くらいしかない(江本勝による「美しさ」に関する言説とNDAが芸術に対してとったスタンスの類似についてはこちらで書いた)。ただ、じっさいにそれは有効なのだ。

おそらく、人間はある属性を持った事象について、共通して美しさを感じるメカニズムを持つのだろう(所属する文化圏の持つ文脈、個人の持つ文脈によって、そうとう広い幅でのぶれと云うか相違と云うか、は存在するにしても)。そのなかで特定の属性を美しさとして定義し、それになにかしら(美、以外のものをオーソライズすべく)意味づけしていくことができれば、それは思考をコントロールする方法としてかなりの力を発揮できるのだろう、と思う。

幾何学的にととのったかたちの水の結晶と道徳的なことばを結びつける、とか。
あるいは一定の方向に向かう表現のみをを健康的なものとし、それ以外のものに退廃芸術と云う名称を与えて病的なものと決める、とか。

この本を読むと、当の江本自身が強い思い込みの中にあるように思えてなりません。
その思い込みをそうとは認めたくないがため、彼はその「証拠」を捜し求め、そして「結晶写真」と出会いました。
たちまちその美しさに魅了され、ついに彼自身がその虜にされてしまった、そういう風に私には見えます。

なので、この部分にはぼくはあまり同意できない。あくまで個人的な意見なのだけれど、それは例えば、パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスが、おのれの芸術観にナイーブに従って行動した、とはぼくにはみなせないのと同じような意味で(とは云え、江本勝本人としてはほんとうはどうなのか、についてはぼくにはもちろんわからない)。

p.145からp.176まで、また美しい結晶写真が紹介されますが、そこには様々な「自然水」の結晶写真もあります。この写真が意味する所を、彼は決して知る事はないでしょう。

「ありがとう」や「愛・感謝」の文字を見せなくても、きれいな結晶は出来るのです。

この部分を江本氏に好意的に解釈すると、「自然のままのものは道徳的だが、人為的な努力によって安全に処理された水道水は、それが人為的であるがゆえに不道徳だ」と云うロジックになるのだと思う(そうでないとOSATOさんの読み解きのとおり、見事に主張が空中分解する)。

そんなばかな、てな感じでこう云うロジックを笑いとばせればいいのだけれど、こう云うタイプの自然信仰(と形容するのにも抵抗感はあるのだけど)はどうやら広がりつつあるように見える。そう云うロジックによる(当事者ではないものとしての傍目には)悲劇(に見える事件)も生じている。NATROM先生のエントリ、信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産ホメオパシーと医療ネグレクトで扱われているような(ちなみにこのあたりのことをどう捉えるか、については、じつはぼくはかりそめのスタンスしか持っていない。ただ、直接接続する趣旨ではないにしろ、このあたりについてはtikani_nemuru_Mさんのニセ科学でヒトは死ぬをはじめとする一連の考察に重要な示唆があるように思う)。

私達の身の周りに目を向ければ、「見た目」やら「キャッチフレーズ」のインパクトだけで宣伝している怪しいものがたくさんあります。
これから私達には、そういう物に対しても客観的な判断を下せる柔軟な思考が要求されているという事を誰もが意識する、そんな時代が今やって来たのです。

この客観的な判断を下せる柔軟な思考と云うのは、lets_skepticさんが批判的思考(クリティカル・シンキング)とは何かと云うエントリで述べられているようなものだと思う。そしてそれは(ここはいまのところ感覚で云っているだけなので詳述はしないけれども)まさにいま、そして今後にわたって個人レヴェルで強く必要とされることになるもののように感じる。