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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

なかにあるもの、外にあること

もともとぼくは、耳の性能が低い。若いときから。で、その若いときに較べても、いまはさらにだいぶ衰えている。でも、昔よりは音楽が「聴こえる」ようになった気がする。

と云うことから、ちょっと考えたこと。

聴こえるようになった、と云うか、わかるようになったと云うか。

もちろん日頃から馴染みの深い音楽に限った話なんだけれど、あるプレイヤーの技倆、と云うものが、ちょっと耳にした時点で判別できるようになったように思う。

ここで云う技倆、と云うのは単に技術と云う話ではなくて。

音楽をつくる行為、と云うのは、音楽を通してなにかを伝えようとする行為で。その意味で例えば、文章をつづる行為と共通するものはあって。伝えたいことがあるときに、それを伝えるために使える語彙がどれだけあるか、その語彙をどうやって適切に文脈に乗せて受け手のなかに浸透するかたちに整えるか。演奏がひとりでなされているのではないのなら、ほかのプレイヤーの文脈とどんなふうにすりあわせるか、全体の表現としてどんなことがどれだけ伝わるようなものとしてかたちづくるか。

伝えたいものは、自分のなかにある。でも、伝える先は、自分の外だ。

そして、伝わることがあり得るのは、外に出すことによって、だけ。

例えば、音楽を聴くぼくは、プレイヤーの外にいる。そして、ぼくの感じ取れるものは、プレイヤーが外に出したものだけ。プレイヤーが外に出したものが、ぼくのなかにあるなにかと呼応して、そこになにがしかの感興が生じる。音楽の感動と云うのは、まぁそう云うもので。

呼応のメカニズムには、いろんなレイヤーがあるだろう。それこそDNAに書いてあるレヴェルもあるかもしれないし、ぼくとプレイヤーのあいだで共有している音楽的な語彙や、あるいは音楽以外のカルチュアである場合もあるだろうし。たぶん、音楽が若いころより聴こえるようになった、と云うのは、自分のなかでそうやってプレイヤーのexpressionに呼応できる要素が蓄積されてきたからなんだろう、みたいに思う。

プレイヤーの裡にある、伝えようとしているものがなんなのか、なんて云うことは、もちろん直接わかることはできなくて。それは発せられた音を介してしか伝わってこない。いったん、外にあるもの、とされないと、ぼくたちには届かない。そして、その外にあるものを受け止める力も、受け手側には要求される。

音楽の場合、それは空気の振動と時間、と云うある意味ひどく頼りなくて抽象度の高いものに依存する。でもそれは、外にだされてなんぼ、だったりするのだ。

で、外には実際になされた表現のほかに、その表現の読み解き、と云うようなものも存在する。うっかりすると、その読み解きを取り込んで、そのまま自分のなかの語彙としてしまうこともある。でも、それはやっぱり取り込んだもので、なので逆に「自分のなかにある」ものを見誤ってしまうリスクもある。

でも逆に、それは「自分のなかにある、でも把握できていない」ものに、外側から光を当てて理解を整理する手がかりにもなる。ぼくがすこし前にこれとかこれとかを読んで感じた興奮は、そう云う種類のものだったと思う。ジャズはちゃんと触れたのが高校を出たあとで、しかもそれは顔見知りによる「演奏される音楽」だったので、事前の身にならない知識よりもまず「音」があって、接する角度はいつも「目の前のプレイヤーの伝えようとすること」を手がかりなしで捕まえること、だったので。

なかにあることを、直接伝えられれば、たぶん表現なんて云うものは不要になるんだろうな、と思う。それがいいことなのかどうかは、わからない。

いったんexpressする、と云う行為はまどろっこしい。そして、その手順を踏むことによる不確定な要素も生じる。

でも、外に出す、外に触れる、と云う行為が生み出す豊かさ、と云うものもまた、あるように思う。そして、そうやって生み出された(送り手側にも、受け手側にも)外にあるものの重要性、と云うのもまた、あるように思える。