文化と条件
WiredVisionの文化はDNAに組み込まれている?「隔離された鳥の歌」実験と云うエントリを読んだ。なんか読んでいて妙な違和感を覚える。
そもそも「鳥の歌」が文化(原文でCulture)なのか、と云う定義の話から始まるんじゃないかと云う気もするけれど。
3世代から4世代を経ると、若いキンカチョウたちは普通に聞こえる歌を力強く歌いあげるようになった。
隔離されることでいったん失われた普通に聞こえる歌
が数世代で取り戻された、と云うことを、文化が回復された、とみなしているみたいだ。
でもこの云い方って、どうなんだろう。
鳥が歌を学ぶ、と云うのが文化的な現象である、と云うのは(用語の精度はともかくとして)云えないこともないんだろう。でも、それが同じ普通に聞こえる歌
になるのが、文化における遺伝的要素の占める支配力の高さを示す、と捉えるのはどうかなぁ。
器質的な条件がたとえば鳥のうたいかたを規定する、と云うのはまぁ当たり前といえば当たり前で(その鳥の声帯の構造の持つ自由度の範囲でうたえる歌しかうたえないんだから)、そのことをDNAに組み込まれている
、と云うのはまぁ間違いじゃないと思う。思うけどそれって文化の議論なのかなぁ。
だってぼくの知ってるかぎりでも、人間の文化は(その器質的な条件の自由度の範囲で)ずいぶん多様だし。と云うか、その多様さにたどりつかない(非常に狭い選択肢に収斂せざるを得ない)ものを文化として論じるのは、そもそもなにか違うように思うのだけどなぁ。