Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

正攻法

これこれの2冊を読んで、感じるところがあったので改めて聴き直す。

アンチテーゼ

アンチテーゼ

 
アンチテーゼ#2

アンチテーゼ#2

 

アニメソングをテーマにした、クリヤ・マコトのジャズ・アルバム。

あれはもう10年くらい前になるんだろうけど、邦楽の曲目の外国人ミュージシャンによるカヴァーのブームみたいなのがあって。松任谷由実とかサザン・オールスターズ辺りの流行った曲を適当にアサインした外国人にカヴァーさせて売る、みたいな。

カヴァー・テューン、と云う発想には、どうしても商売ドリヴンな安直さ、みたいなのが見え隠れする。受け手側は知っている曲なので受け入れやすいし、カヴァーすると云う行為そのものに最初からわかりやすいプリミティヴな批評性、みたいなのがビルトインされているので、聴く側も聴くためのポジション、みたいなのが最初からいくらか与えられている(結果理解しやすいし、語りやすい)。そもそも流行り歌、みたいなものと個人的に多少アスペクトを持って接してきたぼくみたいな人間から見ると、プロデュースする側と受け手側の、なんと云うか生産/消費のストーリィ上の安直な結びつき、みたいなのがあからさまに透けて見える気がして、滑稽さと気持ち悪さを少しずつ感じていたりして。
とは云えあんまりこのへん訳知りな顔はできなくて、ときおりある初期パンクの「スタイル」でスタンダードな楽曲をカヴァーする、みたいなパターンには、ちょいと血が騒いだりもするのだけれど(パンクがそんなものになってしまった、と云うネガティヴな感慨もあるけどね)。

で、このアルバムは、「アニメ・ソングのジャズによるカヴァー」と云う点だけを取り出せば、そのコマーシャルな文脈に乗っているように一見思える。なので、自分でそのコンセプトに惹かれて買った、と云うわけではない(と云うかぼくが自分で買ったんじゃなくて、本来つれあいの持ち物)。でも、聴いた瞬間から、まったく違うのがわかった。
このアルバムを最初に聴いた時点で、ぼくのクリヤ・マコトと云うピアニストに関する知識は、THE END OF EVANGELIONの曲中歌であるTHANATOSの間奏で、なんだか凄まじいローズのソロを弾いているピアニスト、と云う一点だけ。なので、なんと云うかよくあるコマーシャル先導型のカヴァー・アルバムみたいな、化学調味料たっぷりで耳ざわりのよさを除くとなにも残らない、みたいな代物ではないんだろう、と云うのが期待した水準だった。
実際に聴いて見るとそれどころではない、なんと云うか現代のぼくみたいな(本籍地ではないにしろ「演奏される音楽」としてのジャズにそれなりの馴染みを持った)リスナーの場所から聴いて、ジャズそのものの楽しみに満ちあふれたアルバムだったわけなのだけれど。

ぼくたちが日常、例えばコンヴィニエンス・ストアやスーパーマーケットで触れる音楽、と云うのは、演奏によって生み出されたもの、と云うよりはプロダクションによってつくられたもので。それがいちがいに悪い、と云うわけではないのだけれど、ぼくらの耳に届く時点で大量の化学調味料や添加物で味を整えられた代物ではあったりする。素材の味なんてわからない、と云うか、素材の持ち味がほとんど残らないくらいに根本的な調味が施されたものだ。でまぁ世間では、そう云うものしか呑み込めない(と云うか生まれてこのかたそう云う音楽しか触れたことがない)と云う聞き手がマジョリティで、なので例えばカヴァー・ブームみたいなものもそう云う消費者向けにつくられたもので。

でも、楽器を触ったりちょっとでもひとまえで演奏したり、と云う現場が身近にあれば、そう云うプロダクションによって生産された商品ではない音楽、と云うものを感覚的に捉えることができる。視点が変わってくる。
事実上「演奏」と云うフェイズだけで音楽が構成される、ジャズ、と云うジャンルはその最たるもので。

ジャズにおける曲目、と云うのはなにか、と考えると、機能としては演奏のルールとイマジネーションの供給元、みたいなもので(このへん明確になったのはたぶんビバップ以降だと思うんだけど、でもたぶんそもそもそう云うもの)。テーマがあって、そのテーマから派生するプレイヤー同士の約束事(コードの構成とか、進行上のお約束)があって、でもってそれに則って演奏が成立する。
で、テーマはなんでもいいわけで(ぼくなんかはジャズのひとじゃなくてブルーズのひとなので、テーマなんてほんとになんでもよかったり)。演奏者同士でお約束とニュアンスを共有できれば、それで最低限のお仕事は終わり。とは云えテーマのメロディとなされる演奏のあいだには当然ながらつよい関係性があるわけなので(こう云う曲だからこんなボキャブラリーが使える、と云うのはあるので)、そこが音楽的イマジネーションにつながっていく。で、さらにそのテーマは、聴衆にとってもその演奏を聴いて、その内容を受け止めるための手がかりになるものであるほうが望ましい(と、こう云う順序になるのがビバップ以降のジャズと云うものの特性だと思う。なんと云うか、消費財としてのポップミュージックとは話の流れがまるで逆)。

ジャズのスタンダードって、そう云うこともあってなんでもいい、と云うか、映画音楽や小唄みたいな感じで親しまれている曲がそのまま採用されているケースが多い。
なら、いまそれをこの国でやろうとすると、アニメ・ソングを選ぶのは真っ当も真っ当、正攻法以外のなにものでもないわけだ。この2枚のアルバムは、そう云う発想でつくられている。

テーマとしてのアニメ・ソングには、ジャズ・ミュージシャン側から見たスタンダードとしての手垢、みたいなものはなにもついていない。リスナーとのあいだの(曲としての)お約束事、と云うのがすでに存在する場所で、自在にイマジネーションを広げられるわけだ。ある意味ジャズは語法が出尽くしていて、そのせいで逆に演奏としての音楽の純度そのものが高まっているので、作業としてはテーマを決め、既存のイディオムからフォーマットを選んでしまえば、もうあとはいかに演奏するか、だけに集中すればいい。音楽に向かい合う姿勢から、非常に効率よく夾雑物を取り払ってしまえるわけだ。この数年、現場を見たり上掲の菊地さんの本を読んだりして、ジャズがどんなふうに生み出されていくのか、と云うことをちょっとばかり意識的に見てきたせいで、この発想の卓抜さが改めて感じられる。
そして、この2枚のアルバムに収められた曲は(1曲1曲けっこう異なったイディオムが採用されているので、聞き手としてのぼく個人から見て面白い曲とそうでない曲はあるけれど)、そのすぐれた発想をみごとに生かしている。と云うか、そこの部分にクリヤ・マコトというひとの(おそろしく理知的で、同時にひどくエモーショナルな)ミュージシャンシップ、みたいなのが集約されているんだろうな、とか思う。

ところで上でアフィリエイトを貼ってみて知ったのだけれど、この2枚ってひょっとして廃盤なのか。
発表時はけっこう売れたはずだし、凡百のカヴァー・アルバムや気分だけのジャズ・コンピレーションをはるかに凌駕する名盤だと思うんだけど、なぜなんだろうなぁ。