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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

権威の取り扱い

waveriderさんのニセ科学批判 vs ニセ科学批判批判についてと云うエントリを読んだ。

いやまぁ、もうこんな話題不毛な気もするし(apjさんの「ニセ科学批判」はワイルドカード入りだし、「ニセ科学(蔓延防止)対策」の1つの手段であると云うエントリでいちおうの整理がなされているようにも思うし)、waveriderさんも私の中では、「批判 vs 批判」問題はこれでカタがついた。とおっしゃっているのであらためて対話の余地なんかがあるとは期待できないんだけど、いちおう周縁部の泡沫ブログとは云え若干なりともどなたかの参考にしていただけるようなことが書けるかもしれない、と云う気がするのですこし言及。

「正しいこと」は、権威を帯びる。
これは文化や規範を超えて働く、人類共通の法則だと私は考えている。
この「正しいこと」は種類を問わない。神や科学や真理や道(タオ)やダルマ、何でもよい。
例えば、ある人が「正しいこと」を発言し、聞き手もそれを「正しいこと」だと認識した場合、その発言や発言者は権威を帯びる。
権威とは、大辞泉によると「他者を服従させる力」のことで、その強力さゆえ取扱には細心の注意を払わねばならない。

じゃあ、権威はなんのためにあるのか。その「他者を服従させる力」の源泉は、どこにあるんだろう。

そもそも権威がなぜ存在するのか、と考えると、それは便利で経済的だから、と云うことになると思う。権威に従えばいい、となれば、あることがらを判断するにおいてのリソースを相当倹約できる。
ただ、ここで留意すべき点がふたつ。

  1. 間違った権威に従うことは、意図しない結果に結びつく可能性が高い。だから、権威に従うにあたっては、その権威が従うに値するかどうかを見抜く必要がある。たぶん、多くの場合それは「その権威を支えているものはなにか、どのようなしくみでその権威は成立しているのか」と云う部分から考えることになるのかと思う(科学の権威の源泉、と云うあたりについては、TAKESANさんが折に触れて考察されている)。
  2. ある権威が影響を及ぼしうる範囲、と云うのがある。特定の権威が無制限にどんなことがらにも適用できる、と云うことはない。科学的な権威は科学的なことがらに、宗教的な権威は宗教的なことがらに。もちろんそれらは(実在論的な見方からすれば)単一の世界に対して影響を及ぼしているわけなので、隣接する部分はあるだろうし、問題によってはひとつのことがらに対して権威同士相反したり相乗したり、と云うことはありうるけれども。ただ、それは「広がり」の部分のお話であって、コアとなる部分は別の方向を向いている。

で、ニセ科学と云うものは上記2つのことがらをあいまいにして(あるいはうそをついて)科学を詐称することでその権威の利用をはかるものだ。なのである意味、受け取り手側の「科学の権威への盲信」を利用する、と云う部分をその根本のメカニズムに持つ。科学の権威を否定すると、ニセ科学のロジックは破綻する。
まぁ多くの「信じることが大事」なひとにとっては、あまりその破綻を気にかけてはもらえないのだけれど。破綻していようがどうだろうが、大事なのは「信じること」であって、「どうして信じたか」「信じるに値するのか」ではなかったりするようなので。

批判批判者が述べる「科学は絶対不変じゃない」「科学は完全じゃない」という反論は、権威を行使される側が発するなけなしの反論と捉えるべきだろう。
そんな反論を述べたとしても、上記の構造が維持されている限りニセ科学批判者の上位性は崩れない。なにより権威が消えてくれない。

いや、徹底して科学の権威を否定すれば、その上位性とやらは、すくなくともその対話の場では崩れると思いますけど(単純に対話が成立しなくなるケースもあるだろうけど)。ただ、「科学は絶対不変じゃない」「科学は完全じゃない」と云うのはニセ科学に対して批判的な論を張る人間のあいだではおおむね共有されている認識なので、端的に云ってそのことにもとづいて論を構築しても結果的に反論の態をなさない、と云うだけで。

そもそもそれ以前に上位性だの優位だの、なんの話だ。waveriderさんのおっしゃることに準拠すれば、その権威は自分自身に対して自ら選んで行使していることにならないか。権威を自ら受け入れつつそれに反するスタンスで発せられた言説は、単に不誠実な言説ではないのか。それも受け手に対してだけではなく、発し手である自分自身に対しても。
批判批判を気取る多くの言説が自家中毒におちいって、「ともかくおまえら(って誰?)の態度が気に喰わない」の謂にしか帰結しないのは、自ら語る内容が自分自身(と、権威を受け入れると云う自ら選んだスタンス)に対してさえ誠実でない、自分自身にとってさえ意義を持たない言説だからじゃないのか。

そう云う自家中毒におちいっている論者に対して、ぼくはつねづね痛ましい、と感じている。で、議論においても言及においても、どちらかと云えばそのような事態に陥らないようにふるまってきたつもりはある。でもそのことは、根本的に不誠実な言説を撒き散らすことが許容されるべきだと考えている、と云うことではまったくない。
それに(ここの過去エントリでサンプルがいくつかあるけれど)「批判批判者」が自らの言動を通じてあらわにしてしまった不誠実さについては、こちらとしては回収のしようがない。

ついでに。

逆に言うと、日本では「科学に背を向ける奴は怠け者でアホで自己責任」という考えを裏でしてしまいがち、というか。

いやまぁ自己責任だとは思いますが、それ単体でとくにアホだとは思いません(科学に背を向けて暮らせるのなら、それはそれで尊敬するかも。具体的にはこちらで書いたような話になるかと)。でもまぁなんと云うか、自分でちゃんと科学に背を向けると云うことがどう云うことなのかを考えない、都合のいいところだけつまみ喰いして自分の発話の整合性なんかは気にもとめない怠け者なのだろうなぁ、みたいには思ったりするかも。
それは例えば、権威と云うものにいちがいにネガティヴな意味合いだけを読み取ってしまうのとおなじくらいには、怠けたふるまいだと考えるので。