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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

裡なるしくみ

雑誌「プレジデント」に掲載された菊池誠血液型で性格を決めつける人とどうつきあうべきかと云う記事がいくらか話題になっている。記事そのものは談話を編集したものらしくて多少要領を得ない内容になってるけれど、亀@渋研Xさんが【資料】血液型性格判断と差別(kikulogから)と云うエントリでまとめていらっしゃるように、彼の日頃の発言の延長線上にあるもの。
で、この記事に関連してKoshianXさんがお書きになった血液型性格判断はエセ科学問題ではなく差別問題だと云うエントリを読んだ。

人は差別をしたがる。自分より劣等な存在を作り上げて、自分は最低ではないと安心したがる。自分の所属や属性は、自分の価値ではないのにね。

ぼくたちは「差別はいけない」と云う教育を受けてきた。だから、例えば建前としてでも、差別はいけない、と考える。すくなくとも差別をすることそのものが、なんの留保もなく胸を張れる行為だ、と考えるひとはあまりいないだろう。で、人類の歴史のなかで、いまはいちばん世界中で「差別はいけない」と考える人口の割合がいちばん多い時代なんだろうな、と思う。

とは云え、人間のこころのなかから、差別を発生させるしくみが失われたわけじゃなくて。なので、「差別はいけない」と云うことを(かりそめにも)理解したまま、いまもそのしくみはうごめいている。ぼくのこころのなかでも。そして、それはなかなか意識のうえにのぼってはこない。
KoshianXさんは、意識にのぼってこないまま差別をおこなっているサンプルを挙げたあとで、このようにお書きになっている。

そして冒頭のニセ科学問題にも、差別問題が含まれてるように俺には見える。差別は自分より下等な存在を作り上げることで、優越意識を持つことだ。

そう、我々は「ニセ科学に騙されるヤツ」という「下等な存在」を作り上げて優越意識にひたってないだろうか。

そういう差別意識、優越意識を元に制度を作ったら、差別制度のできあがりだ。そういった自分の感情に、もう少し敏感でありたいと思う。難しいけど。

もちろん、ニセ科学についてなにか語る場合に、例えばぼくはニセ科学に騙されるヤツ」という「下等な存在」を作り上げて優越意識にひたっているつもりはまったくない。ただ、「まったくない」と思っていても、それが単に意識できていないだけだ、「つもり」なだけだ、と云うことは(ぼくの自覚が足りている、足りていない、と云う水準の話だけではなく)ありうる。差別を生み出すはたらきは、ぼくのこころのなかにもある。
そしてこの、ありうる、と云うことをどれだけ意識していくか、と云うくらいしか、実際にできることはたぶんない。いや、だれかが指摘してくれるのを期待する、と云うのもあるかもしれないけれど。

ただ、この部分は、最終的に個々人が自覚のもとに意識していくしかない(だれかが代わりに考えてくれることなんてありえない)と云うことを、自戒とともに認識するしかないのだろうな。すくなくとも、差別を生み出すしくみが人格の完成とともに自然に抑制されるようになってくる、と云うようなことは生じないのだから。

そういう差別意識、優越意識を元に制度を作ったら、差別制度のできあがりだ。そういった自分の感情に、もう少し敏感でありたいと思う。難しいけど。

最近、どうも「個々人の意識」に準拠した批判活動はわかりづらい、と云う声が聞こえてくる。どうせならまとめて活動の方向とか目標とかを一本化しろ、みたいな指摘もある。
ただ(ほんとうに一例にしか過ぎないけれど)そう云うかたちでの方向付けは、ある意味そう云う個々人の自覚みたいなものを覆い隠してしまう可能性もあるんじゃないか、みたいにも思う。

ところでこの種の話になると、「軽い話題だしそんなに目くじら立てなくても」とか「酒の場の話題としてはちょうどいいし、そう云う場では空気読むことのほうが大事だし」みたいな反応をするひとたちが必ずいる。実際問題そう云う感覚はわからなくもないのだけど、わざわざ他人の目に触れる場でそう云う発言をするのって、自分に最低限の自覚が欠けていることを晒しているだけに思えるんだけど、どうかな。
「空気」の側にいることを根拠に発言するのは、わりと醜悪なおこないだと思う。そう云う空気の読みかたが、実際には多くの差別を温存し、場合によっては拡大させる原因になっているのではないか、みたいにも考える。あ、これも自戒の材料にすべきなのかも。