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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

視点のまとうもの (「戦場の画家」レベルテ)

忙しくて本が読めない。平日は必死になって読書時間を取っても1日8分とかになってしまう。

戦場の画家 (集英社文庫)

戦場の画家 (集英社文庫)

  • 作者: アルトゥーロ ペレス・レベルテ
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 文庫
 

そんなわけでこの本も読了まで2週間以上かかってしまった。

同時代のできごとなのに、ほんとうの意味では想像力が届かない。
ユーゴスラビア崩壊にともなう諸々の紛争は、ぼくにとってそう云う種類のできごとだ。

辺見庸の、宮嶋茂樹の、そのほかの著者の書物で、ぼくはその紛争を知るだけだ。
それらに描写された実情に慄然とはするものの、それは部外者の視点でしかない。ここも観客席、ではないはずなのだけれど。

視点。
みるものと、みられるもの。

この物語は、それを「撮るもの」と「撮られるもの」に置き換えて描く。かつて撮るもの、であった画家と、撮られるもの、であったもとクロアチア民兵。同じ場所にいながら、風景と外的な(属性に基づくものを除いた)状況を共有しながら、そのためにふたりに見えるものは違う。おなじものを見ているのに。

視点の違いは、見えるものの違いを生む。見えるものの違いは、理解の違いを生む。
画家は「撮る」主体としての視点から見えたものを、より自分自身の主体に近いかたちでアウトプットできる手段として壁画を選ぶ。そしてその壁画のいち要素として、もとクロアチア民兵は取り込まれる。壁画を前にして画家と対話する、彼もまたひとつの主体、であるにも関わらず。

「撮るもの」としての視点は「撮られるもの」に対して特権的だ。でも、対話している画家ともとクロアチア民兵は、互いが互いに対して特権的ではない。画家が「撮るもの」として身にまとっている特権は、その愛する女の決定的な瞬間に居合わせた際の行動が話題にのぼることによって剥ぎ取られ、その場においては対話のなかで向かい合う主体のひとつとしてまるはだかにされる。

そして、画家は写真家ではなく画家としてまた、表現をおこなうための主体としての立場をすでに選んでいる。
「撮るもの」としての視点はどんな意味を持ちうるのか。それはその視点をもつものに、そしてその視点を向けられるものに対してなにをもたらすのか。
主体を離れた視点の意義は。そして、自分自身は主体として、その視点を持つことにどんな意味を見いだすべきなのか。

ぼくが日頃ここで述べているようなことがらに関わる、なにかしら重要な示唆が、そこにはあるように思う。簡単な回答としてまとまるようなものではないけれど。