捉える
山崎達也さんの水が教えてくれること?と云うエントリを読んだ。
常識を働かせればできること、みたいな部分で昨今個人的にあれこれ思考がもがいていたりする状況ではあるけど。
水の結晶自体が、外部的要因に反応し、
形を変えることは事実です。
この外部的要因
と云うのがなんなのか、と云うことをある程度絞り込んで述べないと、なにが事実
であるかを語ったことにはならない。
ならないのにそう云う気持ちになれる、と云うのがどう云うことなのか。このへん、たぶんお水さま系言説がいっこうに減らない(日夜ニセ科学批判言説の何倍生産されていることか)理由があるんじゃないか、と云うふうにも思う。
どんな説であれ、柔軟に捉えていきたいです。
まだこれから
解明されていくことが沢山あるのですから…。
こう、もはやこの文脈から考えると、このかたのおっしゃる捉え
る、と云う言葉の意味がまったくわからなくなる。そこになにかしら思考を巡らし、自分なりに理解する、と云う意味合いがあるのだとすれば、そんな手順を踏んでいるようには見えない。柔軟さ、と云うのは、思考の省略を意味するわけではないと思うのだけど。
あと、これから解明されていくこと
、について語るのならば、これまで解明されていることをある程度踏まえるのが前提になるような気がするのだけど、どうやらとくにそのあたりは顧慮する必要はない、と思われているように見受けられる。
印象論だけどなんか気になるのは、このかたの発されるような言説が、けっこう「気づき」と云うキーワードと結びついていることが多いこと(まぁ江本勝関連の言説全般に云えることだけど)。で、そこに透けて見えるビジネス的な背景、と云うのを漠然と考えたりもするのだった。