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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

科学と常識

宮城の新聞に、仙台市天文台長に聞く:土佐誠さんインタビュー(天文学者)/科学って、そもそもなんだろう?と云う記事が載っていた。
いや、この「宮城の新聞」と云うのはSix Apartのプロジェクトに基づき設置・運営されているものらしく、運営母体も不明なんだけど、なんか結構充実した内容みたい。そのうち余裕があるときにちゃんと読んでみる。

こう云うことを書くのはいくつかの意味で気恥ずかしいのだけど、ぼくの小学校3年生くらいまでの将来の夢は天文学者で。これは明石の天文科学館まで数駅、と云う場所に育ったことにもだいぶ影響されているんだろうと思う(で、たぶん当時のぼくは天文学と云うものに対して多大な誤解をしていたと思う)。で、そのあと夢も変わったりしたので、中学時分には西公園(広瀬側の東岸)にあった仙台の天文台にはそれほど足を運ばなかった。
で、この仙台市天文台が錦が丘と云う郊外の住宅地に移ったのが去年。近くを通ったことはなんどもあるけれど、まだ入館したことはない。時間をつくって、行かなきゃ、とは思っているけれど。

で、この記事は天文台長のインタビュー。ただ、この記事は科学って、そもそもなんだろう?と云うカテゴリのなかの記事(このカテゴリがずいぶん充実している。そのうちちゃんと読む)なので、そう云う角度からのインタビューになっている。全体に興味深い話題なんだけど、ニセ科学についてもちょっと。

—科学と非科学を見分ける上で、わたしたちに必要なスタンスとは?

それはなかなか難しいことですよね。
まずは科学以前に、常識を養うことでしょう。

普通の生活をしていて、起こりそうにないことは、起こらない。
何もしないで物質をつくったり消したりすることは、有り得ないことです。

占いなどで病気を治すことはもちろん有難いことだけど、
普通、何もしなければ、それは起こらないことですね。

日常生活で、実際の現実に触れながら生活をして、
そういう常識を養う、っちゅうことなのかな。

その延長線上に、科学もあるわけです。

けれども、子どもがゲームマシーンの中で、非現実的な世界を考えていると、
常識、つまり実際の世界を超えてしまうのですね。
そういう感覚でいると、エセ科学にひっかかりやすいのでは。

落ち込んでいるときや、ストレスや不満があるときとか、
そういうものに騙されやすい時期があるかもしれませんけどね。

普通に自然のなかで生活していて、あまり特別なことを期待しないというかな。
あまりうまい話にはのらない、とかね。

そもそも科学には、うまい話はないです。
研究する上で、いろいろな実験や観測をして、データを集め、
いろいろな発見があって、はじめて世の中に理解されるわけですね。

つまり日常生活を通して、感覚や常識を養うことが一番。

現実世界の中で、冬は寒いし夏は暑い、とかね。
単純に言うと、そういうことなのですけど。

今は、人工的に環境を変えたりして、ちょっと非現実的な世界なのかもしれません。
典型的なのはゲームマシーンの中で遊ぶことなのだけど。

生の自然に触れる機会は少ないよね。

(引用に当たって、インタビュアの質問の部分をイタリックにしました)

最近「素人にはニセ科学は見抜けない」的な論調を目にする。で、「そんなことはないはずだ」と云うのを、ぼくは(素人のひとりとして)主張してきた。土佐誠さん(と云う呼称はなんか落ち着きがわるいのだけど仕方がない)がここでおっしゃっていることは、ぼくが云ってきたようなことをよりきっちりとご説明くださっている。ゲームマシーンの功罪を強調する論調には異論もあるけれども、インタビューの内容に沿って考えれば包括的に捉えた場合の一因として挙げられるものであるのはまぁ確かだし、個人的な意見なんだろうからそれはそれでありなのかな、とは思う(ゲーム脳の話をしているわけじゃないし)。でもニセ科学にだまされるのはゲームに接しているこども(とおとな)だけじゃないよ、とは云いたくなるけど。
まぁ、これを日常生活のなかで過剰な負担なしにどうやって実践していくのか、と云う部分になるとまたいろいろ出てくるわけで。で、あぁでもないこうでもない、と考え続けることにもなる。ぼくはここで、その過程を晒している。

でまぁ、こんなようなことを云っているのはもちろんぼくだけ、あるいはニセ科学批判に素人のスタンスでコミットしている人間だけ、と云うわけじゃなくて。実際のところは菊池誠を典型としておおむねの「科学の玄人」も、ニセ科学に言及するにあたって云い続けてきたことではあるのだった。