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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

なにを学ぶか

eastcorridorさんの「水からの伝言」から学んだことと云うエントリを読んだ。

水からの伝言」を読むことにより、水が自分を含む生命の主成分であるとの認識を得、水をいとおしく思う気持ちが励起された、ということである。

いいことか悪いことかわかりませんけど、まぁそう云うこともあるでしょう。

水からの伝言」を読むことにより、水をいとおしく思う気持ちが励起され、そのことによって人生が豊かになるのなら、それはそれで良いことだ。

どんな人生が豊かだと感じるかはひとそれぞれなので、水をいとおしく思う気持ちによってeastcorridorさんの人生が豊かになっても不思議ではないし、もちろん構わないのだけど。でもeastcorridorさんの人生がどんなふうに豊かになったんですか? と云うのは訊いてみたいように思う。

水に対してありがとうの気持ちを使うことで、水をきれいにすることへの関心が高まり、それが具体的な行動に結びついて、結果的に自分達の水環境を良くする活動に結びつくのであれば、それはよいことだと思う。

その具体的な行動と云うのは、「水からの伝言」を著した江本勝氏の意図をちゃんと汲むとしたら、例えばよってたかってこんな行事に参加することなんだけれど、こう云う行事が自分達の水環境を良くする活動に結びつくとeastcorridorさんはお考えだ、と云うことなのだろうか(上でリンクした催しは江本氏本人の呼びかけによって開催されたものなので、その意図のありどころについて誤認の余地はない)。

いや、もとの主張はどうであれ、その主張を受け止めたひとが主張の主旨と相違する理解をすることによって好ましい結果にたどりつくことはもちろんつねにありうる。ただ、そのことをもってどのような主旨の主張も批判されるべきではない、とするのは極端な思考の節約だと思う。
江本勝氏の主張によると「綺麗な結晶をつくらないほど穢れている」ことになる日本の水道水は、そのまま飲める。これは世界でもまれなことだ。なぜ、そのまま飲めるのか。人生が豊かなひとたちが琵琶湖で祈ったりコンサートをしたりしているからなのか(この件についてはkikulogの某所に書こうと思って、やめたことと云うけっこう古いエントリで、すでに議論の積み重ねがある)。
前にも書いたけれど、「水の宗教」とも呼ばれるほどその儀礼のなかで水を重視するバリ・ヒンドゥーの教えを敬虔に守るひとたちが住み、日常にスピリチュアルなことがらが深く浸透しているバリ島の水道水は、飲めない。なぜか。水に対して心からの祈りを捧げるひとたちが、あれほど大勢住んでいるのに。

スマトラ島津波、ハリケーン・カトリーナに対して、江本勝氏がどのような発言をしたか。これについては公式サイトの記事がすでに消去されているので、大枠が記載されているX51.org人の意識を映す水 — "水は答えを知っている"かと云うエントリにリンクを張っておく。ちなみにぼくは江本勝氏のこれらの発言は被害者に対する冒涜だと思うので、許容できない。こう云うものを読んで人生が豊かなひとたちがどう感じるのかは知らないけれど。

個人的な見解を書くと、ぼくはこう云うことを平然と受け入れるような人生が豊かなひとたちに囲まれた社会で暮らすのはごめんだ。そこでは水道水も安心して飲めないだろうし、不慮の水害に遭ったときにも様々な水による災害は人間に原因があると云うロジックで自己責任にされてしまうだろうから。