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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

要請

kaqu11さんの空が落ちてきそうに見えて心配ですと云うエントリを読んだ。ところで最近ここの古いエントリは「きくまこコメント倉庫」みたいな感じで言及先にされることが増えているなぁ、と云うのは余談。

結局のところ、例えば「正しい」と云う言葉の意味の強さ、みたいな部分へどれだけ配慮するか、みたいなこともあって。

結果、ニセ科学批判という議論は「間違ったニセ科学」と「正しい正統的な科学」という対立軸のはっきりした議論として見えるようになります。「科学的に見た時にはどうか」ということを議論する限りにおいては「間違ったニセ科学」に分はなく、「正しい正統的な科学」の方が必ず正しい、という議論です(*1)。

ここで生じるのは、「『科学的に』正しい」=「正しい」、と云う言明に受け止められる、と云う部分。ぼくを含めて、たいていのニセ科学に継続的にコミットしている論者はこのへんで痛い目にあった経験があって、少なくともちゃんと文脈を追えばそう云う受け止められかた(無限定で「正しさ」を主張しているような読まれ方)をしないように相応に注意深くなってはいるのだけれど、議論の場に登場する方には「積極的に文脈を読まない(もしくは議論の相手の文脈に頓着しない)」かたもいらっしゃるので、実際のところどうしても限界はあったり。

例えばこの辺、必要なだけの留保を列挙したうえで「正しい」と云う言葉を「妥当だ」みたいに言い換えれば、意味の強さやそれゆえの一種の暴力性を緩和することもできる(このへんの、なんと云うか語気、みたいな話に関してはlets_skepticさんのニセ科学批判者曰く「うわ、そんなことありえないよ」と云うエントリをご参考に)。
でも、緩和することはできても、原理的に根本的な解決にはならない(おれは文脈を読まないぞ。文脈を読まないおれを納得させられなきゃその言説はだめだ、的主張を本気でする無敵の論者も絶えず登場するので)。

さらに難しい部分として、「わかりやすく」書くことがつねになにかを伝えるために要請されている、と云う実情もあったり。
留保が増えると真意が通じづらくなる。厳密に書こうとすると読まれない。こちらは「白黒二元論じゃだめだ」と主張したくても、届けたい相手は二元論的わかりやすさがものごとに対する理解に必須となる層だったりもするわけで。できるだけわかりやすい言葉を選ぶ、受け入れやすい文体を選ぶのが、目的に対して必要となる。こう云う二律背反をじつはニセ科学に言及する論者は最初から抱え込んでいて、そこで結論もなく(そんなに簡単に結論があったらまずい部分だけれど)もがいている。

結果として、ニセ科学批判をする人の意図に(たぶん)反して
「科学的に正しいことを言う人の言っていることは(科学以外でも)正しい」
と漠然と思う人が増えていないか少し心配です(*2)。杞憂ですめばいいのですが。

kaqu11さんはこのことを自戒として、つまりご自分のこととしてお書きになっている。もちろんそれはぼくとかも受け手として自戒すべきだし、科学的に正しいことを言う人と云う立場にあるひと(まぁふつうの、まっとうな科学者はみんなそうですが)がなにかを発信するときに、その受け手となるぼくたちが要求してもいい部分だと思う。
でもなぁ。発信者は「正しい」(とまでは云わなくても少なくとも「妥当だ」)と思っていることを、その認識に基づいて発信するわけだし、それって意義のある発言をするための最低限の誠実さ、だからなぁ。しかたないとは云え、求められる矛盾にどこまで応えていけるのか。

と云ったあたりで結論はなし。他人事、として捉えないように考えれば、結局は力量の問題にしか帰着しない。これってあんまりニセ科学の話でもないなぁ。