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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

あらためて知る、考える

KumicitさんがFinancial Timesがニセ科学との戦いの必要性を主張すると云うエントリでFinancial Timesのエディトリアルを翻訳されている。

でも、ひとたび広まってしまったニセ科学を根絶することは無理かもしれない。

だからこそ、Financial Timesは指摘する。短期的には、迅速かつ断固たる態度で意見を述べる多くの科学者が、そして長期的には科学リテラシーを持つ多くの人々が必要なのだと。

このへん、dlitさんがニセ科学批判はニセ科学の根絶を目指している?と云うエントリでお書きのこととも関わってくる、と思う。

科学リテラシー、と云う言葉を使うのをぼくがあんまり好きじゃないのは、たぶんぼくがそう云うものをあまり持ち合わせていないから。そりゃあったほうがいいんだろうけど、残念ながらそう云う方面の思考能力はとても弱い。科学、については、だれか頭のいいひとがぼくの代わりに考えてくれたほうがありがたい、そんでもってわかるように教えてもらいたい、と云うのが本音(ぼくに欠けているのは科学的な思考能力だけじゃないけどね)。
で、こう云うスタンスでいる以上、必要になるのは信用できる「だれか頭のいいひとによる言説」を見分ける能力、と云うことになる。科学について云えば専門家である科学者による見解ですね。

もちろんこれは属人的な信頼だけじゃだめで(このひとの云うことなら正しい、みたいな)、その見解の信頼性、と云うものを都度見分ける、と云うことになる。著名な科学者がポピュラーな媒体で受け手の誤解を(めいっぱい好意的に見て)心裡留保的に許容する言説を行うことがある実例については、a-geminiさんが丹念に批判されているとおり。
で、それは科学リテラシー(どうもこの言葉、具体的な定義がよくわからない部分もあるんだけど)がそんなに高くなくても、それほど難しいことじゃないんじゃないか、みたいに思う。と云うか、このブログでニセ科学に言及したエントリに価値があるとすれば、それは2割くらいは「知ってなくても、知ること、そして少し考えることで、ニセ科学でリアルな被害に遭うことはおおむね回避できるんじゃないか」と云うことについての、演習みたいなものとしての側面にあるんじゃないか、とか考えたりする(残りの8割はコメント欄にお越しくださるみなさんによる示唆、ですね。もちろん)。

必要なものがあるとすれば、科学的な思考と自分の感覚(まぁ感性みたいなもんですね)を混同させないこと。前にも引用した、tikani_nemuru_Mさんが体験によらない知識の重要さについて言っておくと云うエントリでお書きになっている、つまり、カガクの方法論というのは万人にとって異物であり他者であるのですにゃ。そしてそれゆえに普遍性をもち、人類にとって特別な地位をえているわけにゃんね。と云う言い回しで表現されているようなことを、念頭に置いて考えること。それは面倒であっても、難しいことじゃない。

とまぁ、このエントリはここまでほとんど他の方の考え方の援用。ぼくなんかの程度の知れた頭でも、こう云ういろんな方の見解を知り、すこし考えることで、たぶん多くの場合ニセ科学の被害は回避できるんじゃないか、と云う演習でした。
それはそれとして上で引用したkumicitさんの言葉にある迅速かつ断固たる態度で意見を述べる多くの科学者については、もっともっとたくさん登場してくれないと、考える材料にも困るよなぁ、みたいに思う部分もあるのだった。