Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

肩書きを否む

ns_79さん(でいいのかな)の魂の存在と云うエントリを読んだ。あらかじめ云っておくと、このエントリで述べられていることを批判する気はあんまりない。

 魂は想念波動エネルギーを持っています。その魂や霊の存在を信じることができますか?
 科学の進歩により、脳の解明も進んでいますが、今だに解けていない謎は多い。
 脳科学は脳(肉体)の研究に偏っている。脳はまさに神業的なすばらしい仕組みで機能している。その機能を研究することにとどまっていませんか?ではその脳を動かしているのは何ですか?その意思はどこから来るのですか?「朝起きる、起きない」「行く、行かない」「頑張る、あきらめる」それらを選択しているのは誰ですか?選んでいるのは何ですか?まず魂(想念波動)が動かなければ脳に刺激を与えられないのではないですか?

想念波動エネルギーと云うのがなんだかわからないけれど、まぁ比喩としてそう云う言葉によって表現されるなにものか、と云うのがあってもおかしくはない(この方のほかのエントリを読めば説明があるのかもしれない)。そう考えると、魂や霊の存在を信じることができますか?と云う問いにも、ぼくはYesと答えることができる(この方のおっしゃる魂や霊と同じものかどうかはわからないけど)。そのうえで、魂(想念波動)が動かなければ脳に刺激を与えられないのではないですか?と云う問いには(話のつながりがよくわからないので)「なんで?」と問い返すことになる。

でもまぁ、それはそれでよくて。lets_scepticさんがニセ科学批判者曰く「うわ、そんなことありえないよ」と云うエントリで触れられているような、実在論の立場に基づく言説ではない、とも考えられるし(多くの場合、そのあたりは曖昧なのだけれど)、だとすればとくに問題だ、とは思わない。 ただ、こう云う言説はどうかな。

茂木:そんなことないです。だって、ぜんぶ物理法則で動いている物質であることは間違いないんですから……そこはもう大前提ですよだから。

 今日、脳の細かい——fMRIとかの——画像とかを見せたら、エンピリカルなスタディしてる先生方は満足して帰ったわけですよね。でもそれではまったく……要するに芸術家が何かちょっとデンパ系のことを言ってるときだって、それはその芸術家の脳の中では何かが具体的に物質的な過程で起こっているわけですから、それを科学的に解明できるというのはこれは当たり前なんですよ。ただしそこで問題なのは、芸術家が主観的に感じている何か色んな「見えているもの」がありますよね? それが、どういう存在論的な或いは認識論的な位置にあるかということは未解決なんですよ。それは分子生物学をいくらやったって分かるはずないんですよ。だってそれは、我々がまったくナイーブな物質観のなかに居るわけで……それね、本当に笑っちゃうんだけど、例えば現代物理学なんかが描いている宇宙論・宇宙観がいかに凄い・ぶっ飛んだものかということを、生物系の先生方はおそらく知らないんですよ。だから要するに無限だとかいうものがいかに普遍的なかたちで宇宙の構造とかそういうものの数式のなかに入ってくるかっていうことを知っていれば、ナイーブな現実観というのは持てないわけですよね。ですから、アーティストというものが何か作っているときに何かとんでもないぶっ飛んだものを見てしまっているというときに、一方ではそれは単に物質としての脳の動作であるということを言うことはできて、それはおそらく間違いない事実なんだけれども、それだけでは、アーティストが見ているビジョンというものを説明したことにはまったくならなくて、それは例えば「無限級数が有限の過程であるにも関わらずなぜ無限というものを或いは無限小というものを表現できるのか」とかいうような数学基礎論とかそういうものに抵触するような何か「妙なこと」がないかぎり、アーティストが持っているそういう主観的な表象というのは説明できないですよね。

 だから、せいぜいモリキュラーバイオロジーで使っているような、超微分方程式で書けるような或いは偏微分方程式で書けるようなそういう世界観の外にあるものが、世の中には実際にあふれているわけですよね。だから藝大の学生はそこでもう自信をもってやっていていいと思うんですよね。

なんかns_79さんのお書きのことに似ているような。これはloguesさんの茂木健一郎講演:「思い出せない記憶の意味について考える」(3 of 3)と云う、茂木健一郎の講演を収録したエントリに記載されている質疑応答の部分なんだけど。

じつは茂木さんがここでおっしゃっていることには首肯できる部分もあって。でも、「脳科学者」と云う表看板を掲げて、これはずいぶんな言い草ではないのかなぁ。引用していない前後も併せて読むと、ぼくにはほとんど(茂木さんの関心分野にアプローチする手段としての)脳科学の方法の否定に読めてしまう。

いや、脳科学者が脳科学を否定してもかまわないし(それでも肩書きを「脳科学者」のままにしておけるのかどうかはわからないけれど)、関心分野に対して有効だと考えられる、脳科学以外の手法でアプローチするのもかまわない。その内容をメディアで口にするのも、まぁかまわないと思う(いつも書いているけれど、ぼくはものごとを理解するためのメソッドとしてつねに科学が最良であるとは考えていないし、それ以外のメソッドによるアプローチを行う側に属する人間だ)。
でも、それならそれを「脳科学ではない」ときっちり伝えるか、あるいは「脳科学者」の肩書きを外して発言するとかしてくれないと、その言説に接した一般人(もちろんぼくなんかを含む)は、その言葉を「脳科学者が脳科学に基づいて発言したもの」として受け止めてしまう。

なんらかの戦略なり計算なりはあるのだろうけれど、それくらいの誠実さはやっぱり必要だろう、と考えるのだけど、どうかなぁ(と云うあたりでぼんやりときのうのエントリに接続するのだった)。