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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

まったきものと、断片と (「ニコチアナ」川端 裕人)

そして、それらをつなぐもの。

ニコチアナ (角川文庫)

ニコチアナ (角川文庫)

 

実際のところ、ぼくらの視界に入る世界の範囲には限界がある。ぼくたち自身、と云う主体の視界によって世界は断片に切り刻まれる。だから、あなたに見えている世界とぼくに見えている世界は、同じではない。

それでも、世界はひとつだ。そこにレイヤーを見いだし、対立を見いだし、それぞれに意味づけをおこなうのは、独立したぼくたちの視点だ。世界はひとつのものとして、すべてを包含して、そこにある。

対立するもの。
ビジネスと神話。
時間を切り分ける精神への作用と、時間をべったりと塗りつぶす依存性。
地理的・政治的な侵略と、文化的な逆侵略。
客体としての世界と、それを認識するひとの心。

これらはあるレイヤーにおいて対立して見える。でも、これらはすべて(実在論的な意味での)世界がその裡に擁する、その意味では絶対的に矛盾しない要素でもあって。
登場人物たちはその視点と文脈にしたがって世界を切り取り、そこから導きだされる目的にしたがって行動する。その行動は、それぞれの理解する(断片化された)世界の外では違った意味を持ち、それぞれの認識の外にあるレイヤーにおいてその意図とは切り離されたかたちで世界に対する働きかけとして作用し、最終的にあるひとつの変容に貢献することになる(このことは典型的にキャリー・ネイションのエピソードで表現されるけれど、多かれ少なかれ主要な登場人物は同様の状況のなかで動き続ける)。

あくまで個別の登場人物の行動を追うことでこの小説は進められていくけれど、最終的にはそれはひとつの世界と、その変容の物語となる。さまざまなレイヤーを抱え込み、それでもその総体として、ひとつのものとして。
たぶん、世界はそのようなものなんだろう。ぼくたちは自分の視点の限界のなかから、あるいはそこから切り出された物語のうちから、それを伺い知ろうとすることしかできないのだろうけれど。