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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

おおむねぼく(たち)はこんなふうに考える

たろさんのマインドコントロールと疑似科学と云うエントリを読んだ。
表題に書いた「ぼく(たち)」と云うのは、まずはこのエントリを書いているぼく自身、そしてここのコメント欄においでくださるような継続的にニセ科学批判にコミットしている論者の方々を想定している。もちろん論者それぞれに意見の違いがあるのは前提なので、kikulogの僕たちのニセ科学批判ではこうは考えない(たぶん)と云うエントリで使われている「僕たち」のような緩いイメージで捉えていただけると助かります(と云うか「それは違うぞ」と云うふうに思われる方はきっとこのエントリのコメント欄にお越しいただける、とか勝手に期待)。

つまり自分の意識が科学的じゃない以上,そしてその非科学的な意識で体調までが変わる以上,科学的な視点だけで世界を捉えていても,たぶんうまく行かないだろう,というのがわたしの考え方です。

ぼくたちはおおむね、そう考えている。ひとにまつわる事柄、とりわけ内面に関わる部分については、そのすべてを科学で理解することができる、問題を解決することができるとは考えない。その意味で、ぼくたちは例えば宗教に役割を認め、期待することもある(ぼく個人に限定して云えば、呪術そのものにも大きな存在価値を認める)。ただし、そこに「ひとの実感」以外の視点が必要とされる場合(ものごとへの理解についてのある程度厳密な共有が必要な場合や、科学的事実に基づく世界把握が必要とされる場合)には、意識の領分でも科学に役割を果たすことを求めるけれど。

言い換えれば,自分のココロは非科学的なのだから,それをコントロールするために非科学的なものを利用するのは別に非科学的ではないと思ってます。

ぼくたちは、非科学的なものを利用することは非科学的であると考える。ただし、ここにおける「非科学的」と云う形容にいちがいにネガティヴな意味をこめることはぼくたちはしない。科学が有効でない領分についてなんらかの対応をすべき場合、非科学的な手法を選択するのはある意味当然のことなので。それを科学的ではない、と云うだけの理由で批判することはない。
ぼくたちが批判するのは、その手段が科学を装い、科学の持つ特性(ひとの感覚の外部に立ち得ること、ひとが感覚的に把握できる範囲の外にある「事実」を提示できること)にもとづいて有効に機能しうる、と主張している場合だ。それはあきらかに虚偽であり、その種の虚偽はさまざまな問題を引き起こすと考えるので。

占いで自分のココロがコントロールできるのであれば使うのも有効だと思います。疑似科学だってそう。

自分のココロをコントロールする手段として占いを使うのも、スピリチュアルを使うのも、呪術を使うのも、疑似科学を使うのも、そのことそのものがただちに批判されるべき事柄ではない、とぼくたちは考える。愚行権としての意味合いも含め、これは個々の自由の領域内にあると考える。ただし、仮にそれが善意に基づいていたとしても、それを広い意味での「他者のココロ」をコントロールする手段として使うことを、ぼくたちは批判する。使う動機が個人的な利害であれ、善意であれ、懐疑的思考の欠如であれ。
もちろん、それが身近にいる大事なひとであれば、そのひとがニセ科学自分のココロをコントロールする手段として使うことを阻止しようとするだろう。ただ、すべてのひとに向けてそのような言動をすべきだ、とぼくたちは考えない。

ただし,疑似科学を嘘と思ってる人には効かないので,誰に有効かそうでないかというのは,一概に言えません。有効な疑似科学を擬似と暴くことは,有効な手段をひとつ失うことになるので,まぁデメリットもあるわけです。

ぼくたちは疑似科学を擬似と暴くこと有効な手段をひとつ失うことになるとは考えない。それは(ある意図の存在に基づく)うそ、なので。特定の個人がうそを信じるのはもちろん自由だ。でも、そのうそが信ずべき真実として主張され、社会のなかでそのうそに基づく行動が行われることは許容しない。

宗教とか呪いとか,そういうのもそういう側面もあるでしょう。

ぼくたちは宗教とか呪いを(仮に類似した側面があるとしても)ニセ科学とは異質のものと考える。端的に前者はうそではなく、後者は(それを提唱するひとたちのなんらかの意図が介在する)うそなので。