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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

自覚と実践

念波さんの「『ニセ科学批判』批判」問題、というかなんというか。と云うエントリを読んだ。こちらで念波さんがお書きのことは、ぼくみたいに議論の全体像のなかでは周縁部にいる人間にとってはけっこう重要なことだと思う。ので、1日迷ったけど言及することにした。

「『批判』批判」の人々の言い分にもきちんと耳を傾ける必要があるのではないか、とは、実は以前から感じていた。

ニセ科学批判にコミットしている論者が一般的にそうだ、と云う話として受け止められると微妙だけれど、ぼくについて云えばけっこう以前からきちんと耳を傾ける必要は感じていて。

でもこれ、言い訳めいて聞こえるのを承知で云うと、難しいんですよ。
まず、たいていの場合「『ニセ科学批判』批判」は、批判にコミットしているすべての人間を漠然と同傾向の一団として把握して、その一団を対象にした一般論としてなされる。論者側は(一団としてみられることについて自覚的ではあっても)それぞれ個別の論者で、基本的には共有しているのは批判の対象(とその概念)でしかない。もちろんおなじものについて論じているので、概念の解釈や論点の共有はあるし、ほかの論者の視点を取り入れて理解を広げていく、と云うのは常時なされているのだけど、逆に云うと(原則としては)そう云うつながりしか持たない。いやまぁそりゃ雑談とかしたりはするけど、もちろんそれはそれで、切り分けができていないわけではない。

そうすると、ちゃんとした対応をするためには、「で、それはどなたのことをおっしゃってるんで?」と訊き返すか、日頃から共有に努めている「ニセ科学の概念と既知の問題、およびそれに関連する議論」を出発点にするしかない(一般論として用いられる「ニセ科学批判者」と云う括りに対応させうるものがほかにないので)。対応がピンぼけだ、と見られがちだけど、そのまえに多くの場合、投げかけられた「『ニセ科学批判』批判」のピントがわからないので仕方がない。

で、きちんと耳を傾けると云うのが実際のふるまいとしてはどうすることを意味するか、と云う話もあって。どうもこの場合求められているのは、エントリを書いて「『ニセ科学批判』批判」の言説にていねいに対応する、と云うことではない様子なので(ぼくなんかなにをどれだけていねいに書いてもおおむね「ヒステリックな対応」としか受け止めてもらえない)。

それでもそう云うある意味本質的ではない議論については、ぼくみたいに議論の周縁で発言している人間が対応すべきなのかな、みたいに考えて発言することもある。そうは云っても例えばぼくごときがニセ科学を批判している人間を代表できるわけがないのは自明なので(そこまで夜郎自大ではないつもり)、仕方なくこのエントリみたいにひどく歯切れの悪い書き方になってしまう。

とりあえずそう云うわけなので、「ニセ科学批判一派」としてきちんと耳を傾けることができるのは「ニセ科学」そのものにまつわる部分だけ。「『ニセ科学批判』批判」をするひとに期待されていて、納得してもらえるような「市民運動団体として誠実な」リアクションをとるのは困難だ。だいたいそんなこと、おいらみたいな泡沫論者が考えるべきことかどうか、と云う辺りで迷ってしまうし。
ついでに云うとこの辺、「『ニセ科学批判』批判」を行う側にもそれなりにポリティカルな意図をもって「ピントを合わせない」ひともいるので、事情はより複雑になる。

「追い込み」をかけるような行為に、どんな価値があるのか疑問に思う。

apjさんご本人がコメント欄に登場してご説明されているけれど。

ここでfinalventさんが試みているのは、「ニセ科学を批判する側が議論において勝ち負けのレヴェルに帰結させたがっている」と云う印象を形成することで、ニセ科学に対する批判と云う行為自体を相対的に矮小化すること。ディベートの技法としてはあり、なのかもしれないけれど(「『ニセ科学批判』批判」を行う側がけっこう頻繁に試みるテクニックでもある)、apjさんがわざわざそこに乗ってあげる筋合いはない、と云うだけの話だと思う。

少数のアクティブが、その内で濃密な議論やコミュニケーションを取り交わすとき、その少数に含まれない人から見て一見不可解な、興味の方向性が現れてくることがある。その少数の中ではきちんとした経緯があり、展開があるのだが、それが周りの追随をぶっちぎってしまうのだ。僕はそうした現象を「尖鋭化」と呼ぶのだと思っている。

この問題点には、自覚的でなければいけない、と思う。でもいいわけめいたことを書けば、さすがにぼくはニセ科学について言及するにあたって、例えばこの場所で行われた各個の議論までをまずは踏まえるべきだ、とは思っていない(念波さんだってお読みではないだろう、と思うし、もちろんそれは当然だと考える)。

ここはアクセス数も知れたものだし、そもそもが周縁部からの言説を発信する場所なので、基本的に展開されるのは「各論」で。ただ、その各論で得られた認識(ここの特殊事情としてその多くはエントリ本文ではなくコメント欄で収穫されるのだけれど)が例えばkikulogでの議論にフィードバックされることもあるし、FAQやほかの場所での議論に援用されることもある。
過剰に自分の言論を卑下するつもりもないけれど、それくらいでまぁ冥加かな、とか思っている。

例えば「ニセ科学を批判するときにそれまでの議論を踏まえるべきか否か」と云う点においては、ぼくとTAKESANさんのあいだの対話では、一見していつも意見が相違しているように映ると思う。ただこれは、ここまで書いたようなスタンスでこの場所からだけの発信を行っているぼくと、ゲーム脳Q&Aの公開をはじめとする、より幅広い手法によるコミットメントを行っているTAKESANさんのスタンスの違い(これは論者個人として「どこまで云っていいか」の違いを生む)と云うだけの話とも云えて。ニセ科学批判まとめwikiをはじめとして尖鋭化を回避するための試みは複数あるし、ここでも行われているある程度細密な尖鋭化した議論はともかくとして、もっと一般論的に放たれた言説に対しては、直接細部にわたって批判するより「こっち読んでください」と云う書き方をすることはぼくも多い。このへん、フィールドの違い、と云うことなんだと思う。

もちろん、念波さんの問題提議は冒頭に書いたように(ぼく個人は)重要だと考えるし、論者一般の念頭から離れてはいないとは思うけれども改めて語られることがそれほど多くなかったのも事実で。言い訳としては「できることしかできないんです」くらいしかないし、折に触れて自分の自覚を確認する、くらいのことはすべきだなぁ、と自省することにします。