Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

科学と云うカーゴ

以前に金枝篇ニセ科学に関するエントリを読んでちょっと触れさせていただいたFrancisさんの、ニセ科学が科学を装うのはある意味当然なんだよと云うエントリを読んで思ったこと。

前のエントリでも書いたけれど、ニセ科学を呪術とみなす観点にはぼくは完全に賛同している。宗教じゃなくて、呪術。ニセ科学を宗教と同質のものとみなす言説にも、そう云う意味ではぼくには異論があって(せいぜいが「ニセ宗教」だと思う)。余談だけどそう云う意味でスピリチュアルに批判的に言及する際には、たいていそれを「ニセスピリチュアル」だと認識している場合、だったりする。
で、宗教と呪術のどこが違う、とぼくが把握しているか。学術的な定義も体系的な知識もないけれど、あくまでぼくの議論の文脈で、今日的な意味合いで。

それはたぶん、どちらも人間の基本仕様に立脚しているには違いないにしても、その場所に留まっているか、ひとつの「世界を把握するメソッド」としての志向を持っているか、と云う部分のようだ。

さて科学。結構うまくいってますよね科学。ちゃんと科学しようとするとしちめんどくさい前提条件付帯条件が色々ついて「あーならばこうだ!」って断言するのが色々と難しいのが普通の科学です。でも頭空っぽにしてバカになって考えてみて下さい。科学万能ですよ、今。

その(架空の)うまくいっている科学、の模倣をしたら呪術として立派に成立しますよね。だから、毎年一定数出現しては消えていく新型呪術の中には、当然に「科学の類感」から構成された呪術があるってわけです。

なるほど。科学と云うのはここではカーゴ・カルトにおけるカーゴ、として用いられている、と云うことですね。

用語としての是非はともかくとして、いまひとつ「カーゴ・カルト・サイエンス」と云う言葉の持つニュアンスをつかめていなかったけれど、こう云う理解でいいのかな。
カーゴ・カルトと云うものが(ほんとうに信仰と云う水準で)実在し命脈を保っているのかどうかは別にして、その原理そのものはあまねくひとのこころのなかに「基本仕様」として存在するものであり、そのことが新種の呪術や、その変種としてのニセ科学を生んでいる、と云う考え方にはとても納得がいく(あまりに納得が行き過ぎていくつかの要素を自分でも見落としているのではないかと云う気になるけど、まぁそこはそことして)。
ついでに云うとニセ科学と呪術の明確な共通点はもうひとつあって、それはどちらも、どこまでも現世利益の追求にしか向かわない、と云う部分だったりする(このあたり科学や宗教とは明確に違う)。

事実として、ぼくたち市井の人間から見ると科学に対する信頼は多くの場合呪術的なもの、だと思う。と云うか、ナイーヴな信頼、と云うものは呪術的にしか生まれないのではないか、と云う気がする。そう云う意味では、実情として社会における運用と云う水準では科学とニセ科学は多くの場合同種のものであって、だからそもそもニセ科学と云うものが存在しうるし、そこに違いはないと云うことを主張するような言説も高頻度で生じるのだと思う。

ぼくは自分で自分を懐疑主義者だと認識したことはあまりないけれど、やっぱりここで重要なのは疑うことだと思う。人間の基本仕様から生じてくる呪術やニセ科学と違って、そもそも疑い続けられることで形成されてきた科学の体系は、疑われることに対してとてもタフだ。
とは云えまぁ疑い続けるのも大変だし、場合によってはそもそも疑うことそのものに素養が必要な場合もある。ぼくみたいに科学の知識に乏しい人間からすると、どこをどう疑えばいいのかそもそもの手がかりさえ見つけられない場合だってある。勉強すればいい、と云えばそれまでだし大事なことではあるんだけど、そうも云っていられない状況だってある(そもそもぼくだってどちらかと云うと明らかに勉強嫌いだ)。

そう云う場合には、apjさんが直近のエントリで提案されているような理解しないという対応をとる、と云うのも現実的な方策だよなぁ、と云うふうに思う。理解する/理解しない、信じる/信じないのいずれかをスタンスとしてすぐさまとらなければいけない事柄は(とりわけニセ科学がらみでは)世の中にはそれほどないのではないか、と思うので。