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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

眼前に「ある」こと (「ボディ・アンド・ソウル」古川 日出男)

知らなかったし、あんまり考えたこともなかったけど、なんか得心した。

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

ボディ・アンド・ソウル (河出文庫)

  • 作者: 古川 日出男
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2008/10/03
  • メディア: 文庫
 

古川日出男は、演劇のひとだったんだ。

演劇には造詣がないし、いまはほとんど見に行かない(劇都仙台とか云ってるけれど10-BOXに足を運んだことさえない)。ただそれでも、学生の頃から20代にかけては何度かは見に行ったりした(なので思い出せるローカルの劇団の名前が古い。十月劇場に劇研麦にPhillip Kidsとか)。黒テントとか状況劇場も1回くらいは見てると思う。
その程度なのでおこがましくて演劇についてなんか語れないのだけれど、見に行くたびに感じていたのは、実際に眼前で演じられている、と云うことのインパクト。

ひとがいて、リアルタイムで動いていて、舞台装置と一緒に物語を紡いでいる。物語は虚構かもしれないけれど、その場所でぼくの目に映っているものは、その場所、その時点で実在している。テントの外は公園で、その向こうには道路があって、テントの隙間からバスが走っている姿と音が入り込んでくる。
現実の空間で、現実の存在が虚構を現出させる。日常とフィクションの境界があいまいになる。日頃いちいち疑ったりせずにその上に立って暮らしているぼくらの日常が、まさにその場所で、演じている役者たちの姿を見ることを通して、揺らぐ。フィクションが生み出される光景が、日常(と、そのなかでぼくが世界を把握する方法)のなかに常在している、そしておおむねは黙殺しているフィクションの存在を意識のうえにのぼらせる。
ぼくが古川日出男の本を読んだときに感じ取っていたのは、どうやらそのことみたいだ。

現実をあくまで現実としてつきはなして描く手法と、そのなかに神話めいた物語を浮かび上がらせるやりかた。
この小説のなかでも、現実とフィクションが混交する。一人称の登場人物であるフルカワヒデオの内側で紡がれるフィクション、フルカワヒデオの外側にある(街や他者と云った)現実。そして、フルカワヒデオの外側から内側に向かって侵食してくるフィクション。ここに至るともはやフィクションなのか現実なのか、内側なのか外側なのか判然としなくなる(弁別する意義もわからなくなる)のだけど。

以前ぼくはここで「サウンドトラック」を酷評して「ベルカ、吠えないのか?」をほめた。それはたぶん、後者にあるダイナミズムが、前者には感じられなかったから。言い方を換えれば、舞台装置と役者の芝居がフィクションを構築しきれずに、ぼくには書割と棒読みに見えてしまったから。
で、なんとなくこの小説を読んで、そのダイナミズムからぼくが受け取っているものの質がどんなものであるか、が分かったように思う。

とは云え、この小説を単体として評価するか、と云うと。
面白いですけど、古川日出男にはもっと面白い小説があるので、そちらをお先にどうぞ、と云った感じかも。「13」とか。やっぱりこの作品は一種のメタ小説(メタ私小説?)なので。