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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

波動で「わかる」と云うこと

庄内地方のタウン誌であるらしい月刊SPOONのウェブ版に、江本勝氏のインタビューが載っていた。2008年2月、三川町での講演のあとに行われたものであるらしい。 まぁ、いつもどおりの主張だと云えばそうなんだけど、美意識と云うものに対して漠然した内容ながら多少ボリュームのあるエントリを書いた直後でもあるので、ちょっと突っ込んでみる。

それまで私は、水の違いを目に見える形で表す方法はないものかと悩んでいました。ある時、1冊の本を開くと、「雪の結晶は、2つとして同じものはない」という文章が目に飛び込んできたのです。そうか、水を凍らせて結晶を作り、写真を撮ってみたら、水はまったく違う顔を見せてくれるのではないか、とひらめきました。
私はまず、町の水道水を調べてみることにしました。東京の水道水は全滅でした。これに対して自然水は、湧き水、地下水、氷河、自然が残っている川の上流など、世界のどの地域であっても、美しい結晶を見せてくれました。

で、町の水道水自然水のなにがどう違う、って話なんだろう、とか思うけどここにはなにも書いてないからわからない。と云うか、その部分を書かないと、実際のところ美しい結晶を見せてくれることがいいことなのかどうかわからない。いやまぁ、真善美はデフォルトで称揚されるべきものだ、と云うのが暗黙で共有されていると云うのを前提にしているんだろうけど、なにが真で善で美か、みたいな部分の議論をすっとばすと「それってなんにもいってねー」って話にならないか。
とは云えこの一節のキモは、「あえて書かない」と云う部分にあるんだろう、と云うことはぼくにも分かる(この種の技巧は頻出する)。

精製水をビンに入れ、2つのスピーカーの間に置いて、音楽を聴かせてみたのですが、その結果はすばらしいものでした。

ちょっと待て、その精製水ってえ代物には「固有の波動」とか云うのはないのか。「宇宙の原理」である波動とやらは精製することで抜けるような、なんか不純物みたいなもんなのか。

ベートーヴェン交響曲「田園」は、明るくさわやかな曲調の通り、整った結晶、モーツァルト交響曲40番は、華麗な美しい結晶を見せてくれました。クラシックに限らず、歌謡曲や民謡、ジャズやロックの名曲も、それぞれ美しい結晶になりました。

ベー6はともかくとして(明るくさわやかな曲調のひとことで片付けてしまうのもどうにもずいぶん舐めた態度だなぁ、みたいには思うけど)。モーツァルト交響曲40番はなんか聴くたびにわかりやすく華麗すぎて小馬鹿にされているような気分になるのだけど(だがそこがいい、と云う部分もぼく個人としてはある)これってやっぱりぼくのなかの水が美しく結晶してないからなんだろうか。いや当面のところまだ凍死したくないので結晶してくれなくてけっこうなんですが。

しかし、怒りと反抗に満ちた、あるヘビーメタルの曲を水に聴かせたところ、結晶はばらばらに壊れた形になってしまいました。

どうやら怒りと反抗に満ちた芸術はよろしくないものらしい。

じつはこう云う発想ってなにか似たものがあったよなぁ、とか以前から思っていたんだけど、どうもぼくはその昔、国家社会主義ドイツ労働者党が退廃芸術(Entartete Kunst)と云う概念のもとである種の近代芸術を排斥した発想と同種のものをそこに見つけていたみたいだ。
怒りや反抗といった不健全なものを題材に取った芸術は退廃しているのでよろしくない、宇宙の原理にのっとっていない、と云うことですね。わかります。でも不思議なのは、たしか「ヒットラー」の文字は美しい結晶をつくらない、とされていること。江本氏とこれだけ思想上で近接しているのに。

ベートーヴェンの「運命」を聴かせた結晶が実に美しかったので、結晶写真を波動測定してみたところ、「免疫力が100点満点」という結果が出ました。

ベー5って云えばルートヴィヒ・ヴァンの聴力障害が発覚した2年後くらいに作曲が始められて、でもってそれに打ち勝とうとした経緯も「苦悩を突き抜けて歓喜へ」みたいに形容される所以だったんじゃなかったっけ。あぁ、なあに、かえって免疫力がつくみたいな話なのかな。苦しみを昇華させた作品だから、免疫力アップに効果抜群! と。——馬鹿にされてるような気がする。

スメタナ交響詩モルダウ」も私の好きな曲ですが、波動測定をすると、「強いいらだち」という感情を相殺し、「安らぎとゆとり」をもたらす波動を持つことがわかりました。そこで私は、音楽は芸術であるけれど、それ以前に癒しそのものなのだと認識したのです。

モルダウに癒されるかなぁ(あんな押し付けがましくて演歌臭い曲、ちょっと癒しと云うには脂っこすぎないか)、みたいなのは個人的な見解なので措くとして、「わが祖国」ってその当の祖国がオーストリアの圧政下にあって、そのなかで民族の原風景への想いを募らせて、みたいな背景から切り離せない曲だと思うんだけど、そこで「癒し」ですか。スメタナの想いの波動はいずこへ。
そりゃ完成した音楽をその背景だけから論じるのは間違ってます。間違ってますが、同様の論法が江本氏の言説には頻出するように思う。

いや、その都度その都度必要と考える要素だけを抜き出して論じているわけですね。わかります。と云うか、「自分の好きな曲だから聴くと安らぎとゆとりを感じる」と云う江本氏自身の波動を測定してるんじゃないかそれ。
しかし波動っていろんなことがわかるんだな。5月に放映された「ミヤネ屋」できくちさんが波動測定器でドレミファソラシドを出してたけど、あれからどんなことがわかったんだろうか(ぼくにわかったのは「さては練習したな」ってことだけだったけど)。

愛というのは、自分から慈しみを与える、能動的なエネルギーです。それに対して、感謝というのはあくまで受動的で、いま生かされていることのすばらしさをしっかりと受けとめるということです。

エネルギーと云うものの定義に、能動的なものと受動的なものに二分される、と云うような理解を導くものがあるのだろうか。ってえかそれって相殺しないのか。

よい水を飲み、よい音楽を聴き、よい言葉を発し、ポジティブに思考することは、波動転換を起こします。よい波動が、水から水へと共鳴現象を起こし、地球上の水を美しくするとともに、この世界をポジティブに変えていくことができるのではないか。そのようなことを、水は私に教えてくれました。

この波動転換と云う用語は初めて見た。で、この転換される波動、と云うのがあるとしてそれはなにが持っている波動なのか、と云うことが明示されていない辺りが多分この一文に施された主要な技巧、なんだと思う。黒猫亭さんが以前お使いになっていた用語を借りると「言葉吝み」ってやつ。まともに読めば最初のセンテンスとふたつめのセンテンスで述べている対象が違う(最初のセンテンスは人間について、ふたつめは地球環境について述べているとおぼしい)ので文意がつながっていないのがわかると思うんだけど、語る対象を明解にしないことでひとつらなりの文章として意味が通じているように読み手に錯覚させる、と云う技術。いやまぁ技術と云うほどのものではなくて、そのあたりでひっかかりを感じない読み手はよっぽど不注意なのか、それとも「信じる」ことの意義を「信じて」いて、疑わしきは読み取らないと云う行動規範を自らに課しているのか、どっちかなんだろうなぁ、みたいに思ったりする。

とまぁ、改めて言及してみるとなんかいろいろ個人的にはっきりしたような。掲載内容については事前にチェックぐらいしてるだろうから、多分江本氏の意図を大きく外れた内容になっている、と云うようなことはないと思う。