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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

美しさと「枠組み」

TAKESANさんのところの美しさをどう捉えるか。江本氏の思考(思想)と云うエントリにコメントしようと思っていて、でもどうしてもまとまらなくてああだのこうだの考えているうちにタイミングを逸してしまった。
と云うわけで生煮えのままなんだけれど、自分のところでちょっと垂れ流してみることにする。

多分、美しさを認識するにあたっては、それを「美しい」と考える一定の枠組みを暗黙の背景としているんだろうな、とは思う。枠組み、とは云っても所属するコミュニティとか文化とか社会とか、それを規定するものの違いが大小強弱さまざまあって(それこそ人間の基本仕様レベルから「マイブーム」まで)、ここで云っているのはそれら全部。文脈、と云う言葉を使ったほうがおそらくはより正確なんだけど、ちょっとわかりづらいのでここでは使わない。いずれにせよここで云う枠組みは個人の中で完結したものではなくて、ある意味個人の外に(条件のように、あるいは環境のように)あるもの。
で、これはTAKESANさんのもとエントリにある使い方のニュアンスで恣意性を持っていて(必ずしも原因と結果が1対1で対応しない、諸条件によって決まってくるにしろ必然的な因果関係があるわけではない)。これらの枠組みはそれこそ科学的な事実に立脚する比較的強固な条件に発端するものから、ごく狭い範囲で一時的に生じているものまで、いずれにせよある程度流動的だったりする。

で、ひとはだれしも複数の枠組みを持っていて、その枠組みあるいは枠組みの組み合わせを基準にして美しさ、と云うものを判断する。先にも書いたけどこの枠組みには多くのひとが共有しているものもあればごく狭い範囲でしか共有されていないものもあって(多分自分のなかにしかない、だれとも共有されていないものもあるだろう)。大きな枠組みによって「美しい」と判断されるものは多くのひとにとって「美しい」ものであるわけだ。 ただ、この枠組みそのものには、個々人の内的な部分では優劣はない。大きな枠組みほど重要だ、と捉えがちだけれどそんなことはないし、ひとりひとり独自の重み付けがなされていてしかるべきもので。で、自分のなかにある複数の枠組み同士が相互に影響しあって、そのひとの美意識、みたいなものができあがる。そう云う意味で美意識と云うのは完全にランダムに生じてくるものではなくて、でもなにか決定的な「正しい美意識」と云うようなものが存在する、と云うものでもない。

で、もちろん個人の中で、取り込んだ枠組み同士の組み合わせとか重み付けも随時変わりうるし、新しい枠組みが取り入れられることもある。あるタイミングで唐突にある画家が好きになったり、あるミュージシャンのすごさが理解できたり、と云うことは頻繁に生じる。要するに、個人の中でも恣意性がある。
とは云え、やっぱり大きな枠組みのほうが影響力は強い(と云うか広範囲に圧力のようなものを持つ)。あんまりたくさんの枠組みを自分のなかに取り込んでいないと、やっぱりそのひとを取り囲むいちばん大きな枠組みがストレートに個人の判断基準になったりする。そうすると例えば流行りものならなんでも好きなひと、とかができあがる。一概に流行りものが悪い、と云う話ではもちろんないのだけれど、そう云うひとにとっては「ほかの枠組み」みたいなものの存在が理解できないので(なにしろ持ってないんだから仕方がない)、ちいさな枠組みに準拠した美的判断は「なんだかへんな美意識」に見える。「あたりまえじゃないもの」に。共有していないのだから、しかたがない。
で、そこにアプローチするのが、やっぱり効率がいい。いや、そう云うアプローチは往々にして退屈だったりもするんだけど、これはぼくの「個人の美意識」レベルでの判断。

で、「水からの伝言」なんかで江本勝氏が示す美意識がおそろしく陳腐で浅薄に見えるのは、できるだけ大きな枠組みをターゲットにしているから、だと思う。怜悧な計算、と云うほどではないにせよ(阪神ファンじゃないひとには「阪神優勝」は美しい出来事ではないし)、まぁ手法としては妥当なんだろう。個人的には、おおきな枠組みだけに準拠した底の浅い美意識なんか美意識じゃない、みたいに思ったりもするので、なんと云うか笑止だったりもするんだけど。
ここまでは「美しさ」について書いてきたけれど、そこにある「道徳」についても、構図としては同じ(枠組みの大きさが意味する部分は違うけど)。

ちなみにこの枠組みと云うのは、人間と云うものの工学的な構造とか、住んでいる場所の地理的・歴史的・地政学的条件とか、所属するコミュニティの特性とか、いろんなものに影響されてできあがってくるもので。だから決定的なものでなくても、完全に任意のものとしてたちあらわれてくるものでもない。じゃあ、どんな要因が枠組みを決めるのか。そのことがわかれば、ぼくらは個人個人それぞれ異なった美意識を容認したうえで、個人の持つ美意識を超えた言葉で「美しいもの」について語ることができる、かもしれない、なんて思う。

学際的な研究によって、「より多くの人が美しいと思っている」のはどういうものか、というのは調べる事が出来るし、それに共通する因子を解き明かす事も、ある程度可能でしょう。しかしそれは、自明(すなわち、普遍的)の「美」の概念を認めるものではないのだろうと思います。

そう云う意味で、ぼくはこの引用部分の内容に同意すると同時に、共通する因子について知りたいと思う。もちろんそれは、人文科学と社会科学の境界を都合よくぼかして意義ありげな言説を提示するみたいなアプローチによるものではなく。