Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「善なる」こと

kikulogの善意ほどやっかいなものはない、熱意ほど扱いづらいものはないと云うエントリを読んだ。うむむ。

善意、と云うもののどうにも面倒な性格については、ここではけっこううだうだと考えていて(こっちを見てみると分かる)。かならずしもニセ科学と関連して、だけじゃなく。

善意、と云うのは善き意思、なので、それそのものは例えば懐疑や議論の対象にはならない。自分のなかの「善意」に疑念をいだくことは難しい。考えてみればあたりまえなのだけれど、問われ得るのはなにが「善きもの」であるか、と云ういわば価値判断の部分であって(これは自問も可能)、その判断をいったん下したうえではじめて「善意」と云うものが生じるのだから。
なので、いだくものにとってそもそも善意は「善きもの」でしかあり得ない。結局、この部分でややこしくなる。

「善意であること」は、その前提としていったん下されている「善きもの」についての判断の正当性も、その善意に基づく行動が望ましいものであるかどうかも、当然ながらまったく保証しない。善意の是非は、それが生じる前後をもってしか問えないわけだ。多分このことが意識されていない場合があるのが、やっかいなのだと思う。

少なくとも「善意だからいい」とか「熱意があるんだからいい」ではないことは明らかなんですけれどね。

でも人間は自分の善意そのものを疑うことはできなくて(だってそれはすでに「善意」になってしまっているのだから)、だから「善意」と云うものに価値判断や行動の基準を置くと、論理的な思考の埒外に出てしまって結果的に無敵になってしまう。思考停止、以前に、思考できなくなってしまうわけだ。

このあたりのしくみがなんとなく分かったからと云って、いまのところぼくにはうまいやり方が思いつくわけではなくて。でもまぁともかく、アプローチしうるのは善意の前段階か(それってほんとに「善いこと」なの?)後段階(それはほんとにいい結果に結びつくのかな?)しかない、で実質的には前段階しかない、と云うのは云えるのではないか、と思う。これはこれで価値判断の基準(価値観)を問うことになるので、もちろん難しいのだけれど。感性とかなんとか意味不明の用語を使って、自分の価値観を神秘的なものとして他者の触れ得ない、論じ得ない領域に隔離してしまおうとするひとがこれほどにも多い世の中ではあるので。

目的はなにか、その行動は目的の達成に対して最適なのか、と云う考え方はある意味経済学的な発想で。余談になるけれど、経済学、と云うものの立てる筋道がなんとなく悪意に満ちて感じられることが多いのも、このあたりのしくみに関係してくる部分があるのかな、みたいに思った。