Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

まぜるな危険

こちらこちらで触れた、関東地区女性校長会における江本勝の講演(これについてのFSMさんによる「HADO」の記事要約はこちら)に関連して、katsuyaさんがお書きの魔術的な言語観と「水からの伝言」と云うエントリを読んだ。

何度か書いているけれど、ぼくは現代に生きる人間も充分に呪術的だと思う。そして多くの場合、ひとはいまも呪術的(katsuyaさんの云う「魔術的」とここではほぼ同義だと理解している)な思考で日常を判断し、まかなっている。で、ひょっとするとこのことについては、ヒューリスティック、と云うキーワードで読み解けるのではないか、とかも考えたりする。このへんまだ「考え中」なのだけれど。

呪術はあきらかに、ひとに効く。それは呪術が人間の基本仕様にもとづくもので、その範囲内である意味合理的なものだからで。その辺りのことについては何度か書いてきた(三等兵さんのエントリに言及するかたちでこのへんで、地下に眠るMさんのエントリにかこつけてこの辺りで、Francisさんのエントリに絡めてこの辺りで。最後のエントリにトラックバックいただいた黒猫亭さんの猫の名附けは難しいと云うエントリも示唆的)。ここでぼくが云う「範囲」とは、ひととひととのあいだのこと。そして、その場所から動くことなく知覚できる範疇の、世界。

人間がナチュラルに考えると、その思考体系は呪術的になる。呪術的な思考体系から把握される世界観は、もちろん呪術的なものになる。そしてその思考体系と世界観は、当然ながら腑に落ちやすい。ひとのなかからナチュラルに出てくるものだから。そしてぼくはそれが、ひとえに否定し去られるべきものだとはまったく思わない。言語に対する呪術的な感覚も含め、そこから豊穣に生まれてくるものの価値を、ぼく自身はなによりも大切なものだと考える(ここのところは個人的な価値観だけど)。

言葉とそれが表す対象の間に神秘的な関連があり、
言葉の使い方によってもたらされる結果に違いがあるとする、
魔術的な言語観は「言霊信仰」とか結婚式の「忌み言葉」のように、
日本社会では古くから脈々として受け継がれてきたものであり、
ある意味では日本の精神文化の基層をなしていると言っても良いのかもしれない。
また呪文や真言のような特別な言葉に魔術的な力があるというのであれば
日本に限らず幅広い文化圏で共通して見られるものである。

そして、ぼくはこのことを文化と、その豊かさに深く関わっているものだと捉えている。

問題なのは、科学と云う「人間のナチュラルな感受性と反する思考方法」を、呪術と混同することで。
ここまで書いたような意味合いで、呪術は呪術で重要だ、と思う。でも同時に、ひとは科学を通じて、呪術ではなしえない成果を挙げてきた。その大きな理由のひとつは、科学的な思考体系が「ひととひととのあいだ」を脱することができる、ナチュラルに知覚できる世界の外に出ることができる、と云う呪術にはない特色を持っていたことだ、と考える。
このふたつは(実利的な面でも、ひとが生み出した思考体系として比較しても)どちらかが本質的に劣るものではないし、二者択一でどちらかを選ばなければいけないものでもない。どちらも万能ではないし、だから片方でもう片方の領域を完全にカバーできるようなものでもない。有効に利用できる側面が違うのだから。

呪術と科学の境界領域にアプローチすることにはもちろん意義があって、例えば民間療法を科学的に解析してそこから有益な医学的知見を得ようとする試みなんかはもちろん有益で(ちょっと適切な例じゃないけれど)。
でもニセ科学は、科学の表面的なボキャブラリーを持ってきて、呪術的な「感性」にフィットする「分かりやすい」筋道にそのボキャブラリーを当てはめることで「科学的である」ことを主張するものだ。これは本質的に異なるものを、まさにその(それぞれの意義の源泉とも云える)相違点を恣意的に無視することで混同を成立させるもので、だからニセ科学は文化としての呪術と、思考体系としての科学の両方を同時に貶めるものとなる。例えば言霊と云うものを「水からの伝言」をベースに理解しようとすることは、根本的に言霊(と云う概念にこめられた意味合い)が持つ価値を貶めることにつながる。

そして、そのことにすら思い至らないような、紋切型に準拠した「分かりやすさ最優先」の思考様式(と云うより思考の放棄)を、ぼくは最大の問題だと考えている。それは例えばニセ科学の議論にサンタクロースを持ち出す、みたいな的外れな発話を自らに許容するような、思考の混濁につながるのではないか。

目標が魔術的な言語観を変えさせるのではなく
水からの伝言」を教育で使わないように説得したいのであれば
「形式ではなく真心が大事」とか「巧言令色鮮し仁」とかの話とか
あるいはいっその事
「言葉は発する者の心構えによって善にも悪にもなる」という
言霊信仰の本来の考え方について話をした上で、
水からの伝言」が好ましくないと指摘する方が
ひょっとすると効果的かもしれないとも思う。

まぁ、どのような方法が効果的なのか、と云うことについては現時点ではぼくにはまだ云えないけれど、でもここでkatsuyaさんがお考えのようなことは重要だ、とぼくは思っている。